台風の翌朝の電話
台風が夜のうちに通り過ぎた朝だった。出勤の支度をしていたエマのスマートフォンに、管理会社の担当者から着信が入った。
「エマ様のマンションの敷地で、駐輪場脇のフェンスが倒れています。幸い、けが人はありませんでした」
幸い、けが人はありませんでした——その一言が、通勤電車の中でずっと頭から離れなかった。倒れたフェンスの向こう側は通学路だ。もし登校中の子どもが下敷きになっていたら。想像しただけで背筋が冷たくなった。
その夜、エマはオルゴールの奥の席で、現地で撮ってきたフェンスの写真をヴィクトルに見せた。
「今回は無事でした。でも、もし誰かがけがをしていたら……私、その人と何の契約もしていないんですよ。それでも賠償しなきゃいけないんですよね? 契約がないのに、どうして責任が生まれるんでしょう」
「いい問いだ」ヴィクトルはカップを置いた。「これまで学んできた債権は、ほとんど契約から生まれるものだった。前章の相続は、人の死で権利が動く話。そして今日は、事故で義務が生まれる話だ。契約がなくても、責任は生まれる」
「管理会社の責任ですよね?」
「でも」とエマは少しほっとした顔で言った。「うちは管理を管理会社に任せています。点検も巡回も向こうの仕事です。たとえば外壁のタイルが落ちて通行人がけがをしたら、それは管理会社の責任ですよね?」
ヴィクトルはすぐには答えず、コーヒーを一口飲んだ。
「じゃあ聞くが、管理会社が『定期点検はきちんとやっていた。台風への備えも、できることは全部やっていた』と証明できたら、どうなると思う?」
「えっと……誰の責任でもない? 天災ですし」
「被害者は泣き寝入りか?」
エマは言葉に詰まった。けがをした通行人には何の落ち度もない。誰も責任を負わないなら、被害者だけが損をかぶることになる。
「結論から言う。建物や塀のような土地の工作物の設置や保存に欠陥があって他人に損害が出たら、まず占有者、それでだめなら所有者が責任を負う。占有者——管理を任されている管理会社や、建物を借りている賃借人は、損害の防止に必要な注意をしていたことを証明すれば免責される。だが所有者には、その逃げ道がない。無過失責任だ。どれだけ注意を尽くしていても、所有者である以上、責任を負う」
「私に何の落ち度もなくても……ですか」
「そうだ。最後に立っているのは、いつも所有者だ」
エマは青ざめた。管理会社に任せているから大丈夫、という思い込みは、たったいま音を立てて崩れた。
事故が生む債権
「順を追って整理しよう」ヴィクトルはナプキンに図を書き始めた。「出発点は不法行為だ。故意または過失によって他人の権利や利益を侵害し、損害を与えた者は、その損害を賠償する義務を負う。契約がなくても、事故の瞬間に、損害賠償という債権と債務の関係が生まれる」
「この損害賠償請求権にも、時効はあるんですか?」
「ある。数字が三つ出てくるから、正確に覚えろ。原則は、被害者側が損害と加害者を知った時から3年。ただし、人の生命や身体を害する不法行為なら5年に延びる。そしてどちらの場合も、不法行為の時から20年が経てば消える」
「知った時から3年か5年、行為の時から20年……」
「ひき逃げのように加害者がわからない事件を考えるといい。犯人が見つからなければ『知った時』が来ないから、3年の時計は動かない。それでも20年で打ち止めになる。逆に、命や身体という取り返しのつかない被害には、3年ではなく5年という長めの時間を与えているわけだ」
部下の事故は誰のせいか
「大家と縁の深い不法行為が、もう一つある」とヴィクトルは続けた。「使用者責任だ。従業員が事業の執行について第三者に損害を与えたら、雇っている使用者も賠償責任を負う。不動産会社の営業マンが、社用車で物件案内に向かう途中に事故を起こしたら、会社も賠償責任を負う」
「えっ、じゃあその場合、運転していた本人はどうなるんですか? 会社が代わりに払ってくれるなら、責任を免れる?」
「免れない。加害者本人の不法行為責任は消えず、使用者と本人は連帯して賠償義務を負う。被害者はどちらに対しても全額を請求できる。そして使用者が賠償した場合、本人に求償できるが——全額ではない。信義則上相当と認められる限度までだ。従業員を働かせて利益を上げているのは会社なんだから、損失も応分に負担しろ、という発想だな」
「会社側が『ちゃんと選んで、ちゃんと監督していました』と言えた場合は?」
「条文の上では、選任と監督に相当の注意をしていれば使用者は免責される。ただ、実際にこの免責が認められることは、まずない。ちなみに、数人が共同の不法行為で損害を与えたときも、全員が連帯して賠償責任を負う。被害者保護のためには、請求できる相手は多いほうがいいからな」
エマはノートに「占有者→所有者」の二段構えの図を描き、その横に大きく「所有者=無過失責任」と書き込んだ。
「マンションの共用部分のフェンスなら、所有者は区分所有者の全員。つまり君も、その一人だ。施設賠償の保険と定期点検は、大家の必須科目だと思っておけ」
権利関係、最後の仕上げ
「これで権利関係の範囲は、ほぼ一周だ」ヴィクトルはナプキンの余白に三つの言葉を書き足した。「最後に、ときどき顔を出す三つを片づけよう。請負、委任、そして契約ですらない事務管理だ」
「請負は、リフォーム工事を頼むときの契約でしたよね」
「そう、仕事の完成を約束する契約だ。完成した建物に欠陥があれば、売買と同じ仕組みの契約不適合責任を追及できる。そして注文者は、仕事が完成しない間なら、損害を賠償すればいつでも契約を解除できる。事情が変わって要らなくなった建物を、無理やり完成させても誰も得をしない」
「委任は……管理会社との管理委託が近いんでしたっけ」
「ああ。事務の処理を任せる契約で、報酬の約束がなくても、受任者は善良な管理者の注意義務を負う。タダで引き受けたから手を抜いていい、とはならない。受任者は求めに応じて事務の状況を報告する義務も負う。そして委任は信頼関係が命だから、どちらの当事者からでも、いつでも解除できる。最後の事務管理は、義務がないのに他人のために動くことだ。台風の日に、留守の隣人の破れた屋根を応急修理してやるような場合だな。かかった有益な費用は本人に請求できるが、報酬までは請求できない」
「頼まれてもいないのに直して、報酬まで取れたら怖いですもんね」
その週末、エマは予備校の模擬試験を受けた。権利関係は14問。数か月前の模試では半分の7問しか取れず、答案を直視できなかった分野だ。
自己採点の夜、オルゴールのテーブルに広げた答案には、丸が10個並んでいた。工作物責任の問題では、「所有者は損害の発生を防止するのに必要な注意をしたことを証明すれば責任を免れる」という選択肢を、迷わず誤りと見抜けた。
「10問。半分しか取れなかった私が、です」
「上出来だ」ヴィクトルは答案を眺めて頷いた。「権利関係は満点を取りにいく科目じゃない。14問中10問取れれば、十分に戦える。——そして次は、満点を狙える科目に進む。宅建業法だ」
「満点、ですか」
「ああ。ただし、あれは実務の科目だ。俺より適任の先生がいる。駅前の不動産会社に腕のいい現役宅建士がいてな——ハンナという。今度、紹介しよう」
聞き覚えのある名前だった。あのアパートの相続の顛末を教えてくれたという人だ。エマはノートの新しいページに「宅建業法・目標満点」と書き、赤いペンで大きく囲んだ。
まとめ
- 契約がなくても、故意・過失で他人に損害を与えれば不法行為として損害賠償義務が生まれる。時効は「3・5・20」(知った時から3年・生命身体は5年/不法行為の時から20年)
- 使用者責任: 従業員が事業の執行について与えた損害は、使用者も連帯して賠償する。本人の責任も消えない。使用者から本人への求償は信義則上相当な限度まで
- 工作物責任は二段構え: 占有者は必要な注意を証明すれば免責、所有者は無過失責任で免責なし
- 請負は完成前なら注文者がいつでも損害を賠償して解除できる。委任は無償でも善管注意義務を負い、どちらからでもいつでも解除できる
- 事務管理は義務なく他人のために動くこと。有益な費用は請求できるが、報酬は請求できない
確認クイズ
1 / 5
建物の設置・保存の瑕疵によって通行人が負傷した場合の工作物責任に関する記述のうち、誤っているものはどれ?