他人の登記簿は、誰でも見られる
「今日は店を出よう。百七十七条の『登記』ってやつの、実物を見に行く」
いつものオルゴールでノートを開きかけたエマに、ヴィクトルはコーヒーも頼まずそう言った。向かった先は、駅の反対側にある法務局。エマにはこれまで縁のなかった建物だ。
「見に行くって……登記って、所有者しか見られないんじゃないんですか? 他人の財産の記録ですよ」
「誰でも取れる。手数料を納めれば、所有者の許可も委任状も要らない。登記は権利を世の中に公示するための制度だからな。隠していたら、対抗要件の意味がない」
先週、二重譲渡では先に登記を入れた買主が勝つと学んだばかりだ。登記がそれほど強い武器なら、確かに、誰でも確認できる場所に置かれていなければ困る。
「なら、あのアパートの登記も取れますか。私が契約直前でやめた、あの……」
「それを取りに来たんだ」
備え付けの請求書に物件の所在などを書き込み、手数料を納めて窓口に出すと、ほんの数分で「登記事項証明書」と題された数枚の紙が出てきた。あっけないほど簡単だった。
一枚の紙は、三つの部屋でできている
エマは待合の椅子で証明書を広げた。ところが、眺めているだけでは何も頭に入ってこない。「表題部」「権利部(甲区)」「権利部(乙区)」——紙は三つの区画に分かれていて、それぞれに知らない言葉がぎっしり並んでいる。
「ヴィクトルさん、これ、どこを見れば『誰のものか』が分かるんですか。甲とか乙とか、契約書の当事者みたいな書き方をされても……」
「読み方には型がある。だがその前に、お前が自己流でどう読むか見せてみろ」
「名前があるなら持ち主」の落とし穴
エマは権利部(甲区)のいちばん下の行に、売主だったおばあさんの名前を見つけた。
「ありました。甲区の最後にあの方の名前。登記簿に名前が載ってるんだから、この人が間違いなく持ち主——国がそう保証してくれてるってことですよね。じゃあ登記さえ確認すれば、売主が本物かどうかなんて疑わなくていいんだ」
「残念だが、それが今日いちばん大事な間違いだ。結論から言う。登記に公信力はない」
「こうしんりょく……?」
「登記を信じて取引した者を守る力、と思えばいい。日本の登記にはそれがない。仮に書類を偽造した無権利者が登記簿上の名義人に収まっていて、お前がその登記を信じて買ったとしても、所有権は手に入らない。真の所有者に『返せ』と言われたら、返すしかない」
エマは背筋が冷たくなった。先週「登記を先に入れた方が勝つ」と教わってから、登記とはそれほど絶対的なものだと思い込んでいた。
「えっ、じゃあ登記って何のためにあるんですか。勝ち負けの基準のくせに、中身は保証してくれないなんて」
「役割が違うんだ。登記は自分の権利を第三者に主張するための対抗要件であって、権利の中身を保証する証明書じゃない。だから実務では、登記を確認した上で、さらに売主本人の意思確認や現地調査を重ねる。登記は入り口であって、ゴールじゃない」
表示は義務、権利は自由
「じゃあ、型を教える」とヴィクトルは証明書を指でなぞった。「登記記録は不動産一つごとに作られて、大きく表題部と権利部に分かれる。権利部はさらに甲区と乙区に分かれる」
- 表題部 — 不動産の物理的な現況。土地なら所在・地番・地目・地積、建物なら所在・種類・構造・床面積など
- 権利部(甲区) — 所有権に関する登記。誰が、いつ、どんな原因(売買・相続など)で所有者になったか
- 権利部(乙区) — 所有権以外の権利。抵当権、地上権、賃借権など
「甲区は『誰のものか』、乙区は『何が付いているか』。この一言で覚えろ」
「それから、登記には申請が義務のものと、自由のものがある。表題部の登記——たとえば建物を新築したときの表題登記は、所有権を取得した日から一ヶ月以内の申請義務があって、怠れば十万円以下の過料だ。一方、甲区や乙区に載る権利に関する登記には、原則として申請義務がない」
「えっ。所有権の登記の方がよっぽど大事なのに、そっちは義務じゃないんですか?」
「そうだ。だからこそ前回の話が生きる。登記するかどうかは自由——ただし、登記しなければ第三者に対抗できない。義務で縛る代わりに、不利益で登記を促す仕組みなんだ。ただし近年、大きな例外ができた。相続登記の義務化だ。相続で不動産を取得したと知った日から三年以内に申請しないと、正当な理由がない限り十万円以下の過料の対象になる。登記されないまま持ち主の分からなくなった土地が、社会問題になったからな」
「申請の仕方にもルールがある。権利の登記は原則、登記で得をする登記権利者と、損をする登記義務者の共同申請だ。売買なら、買主と売主がそろって申請する」
「売った側もですか? もう関係ないのに、面倒くさがりそう」
「不利益を受ける側をあえて関わらせることで、嘘の登記を防いでいるんだ。公信力がない分、入り口の真実性はここで担保する。もちろん例外もある。判決による登記と相続による登記は単独で申請できる。裁判で争った相手や亡くなった人に『一緒に申請してくれ』とは言えないからな。ほかに、登記名義人の氏名や住所の変更登記、それに仮登記も、登記義務者の承諾があれば単独で申請できる」
「仮登記? 仮免許みたいなものですか」
「近い。本登記の要件がまだそろわないうちに、順位だけを先に確保しておく登記だ。あとで本登記に進んだとき、その順位は仮登記をした時点のものになる。ただし、仮登記のままでは対抗力はない。順位を保全するだけの、いわば席取りだ」
「席は取れるけど、まだ座って主張はできない……」
「うまい言い方だ。それともう一つ、お前の一戸目のような区分マンションには特例がある。所有権の保存登記は本来、表題部に所有者として載っている者が申請するものだが、区分建物では表題部所有者から直接買った者——分譲業者から買った人が、自分の名義でいきなり保存登記できる。一部屋ごとに業者名義の登記を挟むのは無駄だからだ」
乙区に残っていたもの
「よし、仕上げだ。この証明書を、今日の型で読み直してみろ」
エマはノートに三層の図を描きながら、一行ずつ確かめた。表題部には所在と家屋番号、構造。甲区には数代にわたる所有者の移り変わり。相続を原因とする移転登記のあと、いちばん下におばあさんの名前。ここまでは読める。そして乙区——。
「……ありました。抵当権設定。債権額と、銀行の名前。これだ。仲介の担当者が口ごもった、あの『消えていない抵当権』」
「そういうことだ。お前が違和感を覚えたものの正体は、乙区に登記された抵当権だった。あの日のお前は、この紙の読み方すら知らずに、契約書へ判を押す一歩手前まで行っていたわけだ」
エマは小さく身震いした。ヴィクトルは指を三本立てる。
「復習だ。一問目——『売買で所有権を取得した者は、一ヶ月以内に移転登記を申請しなければならない』。○か×か」
「×です。権利の登記に申請義務はない。……ただし相続登記だけは、知った日から三年以内の義務でした」
「二問目——『仮登記をしておけば、本登記の前でも第三者に対抗できる』」
「×。仮登記は順位の席取りだけで、対抗力はないです」
「最後——『この乙区の抵当権が付いたままの物件は、絶対に買ってはいけない』」
エマは答えに詰まった。直感では「買ってはいけない」だ。だが、ヴィクトルがわざわざ最後に置いたということは、きっと……。
「その迷った顔が正解だ。答えは次回。抵当権とはそもそも何で、なぜ実務では『付いたまま』でも取引が始められるのか。この紙の続きを読むぞ」
まとめ
- 登記事項証明書は手数料を納めれば誰でも取得できる。登記は権利を公示するための制度
- 登記記録は表題部(物理的現況)・甲区(所有権)・乙区(所有権以外の権利)の三層構造
- 表題部の登記は一ヶ月以内の申請義務、権利の登記は申請義務なし。ただし相続登記は取得を知った日から三年以内の申請が義務化された
- 権利の登記は共同申請が原則。判決による登記・相続による登記などは単独で申請できる
- 仮登記の効力は順位保全のみで対抗力はない。そして登記に公信力はない——名義人が真の所有者とは限らない
確認クイズ
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建物の登記記録に関する記述として正しいものはどれ?