権利関係、十四問中七問
オルゴールの奥の席で、エマは裏返しに置いた模試の成績表から手を離せずにいた。初めて受けた宅建の模擬試験。合計点はぎりぎり平均あたり。ただ、この数ヶ月かけて民法を学んできたはずの権利関係が、十四問中七問。ちょうど半分しか取れていなかった。
「見せてみろ」
向かいの席のヴィクトルが答案を上から順に眺めていく。
「契約の成立、詐欺と強迫、時効……勉強したところは取れてるな。落としているのは、ほとんどここだ。物権変動と登記がらみの問題」
「ぶっけんへんどう……?」
「所有権のような“物に対する権利”が、移ったり生まれたり消えたりすることだ。売買で所有権が売主から買主へ移る。あれが物権変動の代表だよ」
エマは間違えた問題用紙を広げた。こう書いてある。
「Aは自己所有の土地をBに売却し、その後、同じ土地をCにも売却した。Cが所有権移転登記を備えた場合、BはCに土地の所有権を対抗できるか」
「私、『できる』を選んだんです。だって、先に買ったのはBですよ? Aは一度Bに売ったんだから、その土地はもうBのもの。後から来たCは、他人のものを買わされただけじゃないですか」
「その答えが、七問しか取れなかった理由の入口だ」とヴィクトルは静かに言った。
「先に買った人が勝つ」はずだった
エマには確信があった。この数ヶ月、契約は申込みと承諾の意思表示が合致すれば成立する、と体に叩き込んできたのだ。
「先に契約した方が勝つに決まってます。物権の移転は当事者の意思表示だけで効力を生じるって条文、ありましたよね。契約した瞬間に所有権はBに移る。ならAはもう無権利の人で、Cは無権利の人から買っただけ。Cが何をしようと、Bの土地のはずです」
我ながら筋が通っている、とエマは思った。A→Bで所有権は移転済み。A→Cは空振り。完璧だ。
「理屈は立派だ。半分は合ってる」ヴィクトルはコーヒーを一口飲んだ。「意思表示だけで所有権が移る。それは民法176条で、お前の言うとおり。契約書も登記も引渡しもいらない。——当事者の間では、な」
「当事者の間、では……?」
「結論から言う。その問題の答えは『対抗できない』。登記を先に備えたCの勝ちだ。どちらが先に契約したかは、決め手にならない」
先に買ったのに、負ける。エマは固まった。
「契約のルールは学びました。でも……不動産は、契約しただけでは自分のものにならないんですか?」
「当事者の間では、なる。だが世の中はAとBの二人きりじゃない。そこで出てくるのが、民法のもう一つの顔。177条だ」
決着をつけるのは契約ではなく登記
ヴィクトルはナプキンに二本の矢印を書いた。AからB、AからC。
「民法177条。不動産の物権変動は、登記をしなければ第三者に対抗できない。“対抗できない”とは、権利を主張して張り合えない、ということだ。BはAとの間では立派な所有者だが、Cという第三者に向かって『これは私の土地だ』と主張するには、登記という札が要る。Cも同じだ。つまり二重譲渡は、BもCも“登記があれば勝てる”状態で並んでいて、先に登記を備えた方が確定的な所有者になる。早い者勝ちの“早い”は、契約の早さじゃない。登記の早さだ」
「でも、Cが『Bが先に買った』と知っていたらどうなんですか? 知ってて割り込むなんて、ずるくないですか」
「いい質問だ。単に知っていただけ——悪意というだけなら、Cは177条の『第三者』に含まれる。つまり悪意のCが相手でも、登記の競争になる。良い物件に買い手が二人つくこと自体は自由競争の範囲内、という考え方だ」
「ええっ。じゃあ正直者のBは、どうやっても……」
「例外はある。Bが買ったと知っているだけでなく、Bに高値で買い戻させてやろう、Bを困らせてやろうといった、信義に反する事情を抱えて割り込んできた者——これを背信的悪意者という——は、判例上、177条の第三者から除外される。背信的悪意者に対してだけは、Bは登記がなくても所有権を対抗できる」
「背信的悪意者のほかにも、登記なしで対抗できる相手はいる。書類を偽造して登記の名義だけ持っているような無権利者、契約も権利もなく勝手に居座っている不法占拠者。こういう連中は、そもそも競争に参加する資格がない。登記の決勝戦は、正当な権利を争う者どうしでしか起きないんだ」
ヴィクトルは少しだけ視線を落とした。
「実は俺も、昔しくじりかけたことがある。二棟目のアパートを買ったとき、こちらの都合で決済を一週間延ばした。その間に売主のところへ、俺より高い値をつける買い手が現れていたそうだ。売主が義理堅い人だったから事なきを得たが、先に登記を入れられていたら、俺は『先に契約した方が勝つに決まってる』と言いながら負けていた。決済の日、司法書士がその場で登記申請まで済ませるのは、この競争があるからだよ」
「後」から現れた者は、みなライバル
「二重譲渡はわかりました。でも模試では、取消しとか時効に登記が絡む問題もあって……」
「そこまでが今日のセットだ。設例でいこう」ヴィクトルはナプキンを新しくした。「一問目。AはBにだまされて土地を売り、詐欺に気づいて契約を取り消した。ところがB名義の登記が残っていて、Bはそれを利用して、取消しの後にCへ土地を売り、登記も移した。AはCに勝てるか」
「取り消したんだから、契約は初めからなかったことに……あ、でも」エマはさっきの図を思い出した。「取消しで所有権がBからAへ“戻る”のも、物権変動……?」
「そのとおり。取消しの後は、B名義の土地をめぐって『Bから取り戻すA』と『Bから買ったC』が並ぶ。二重譲渡と同じ構図だ。だから判例は対抗関係——登記の先後で決める。Aは取り消したら、すぐに登記を取り戻さないとCに負ける。取消し“前”に現れた第三者なら、前に詐欺のところでやった善意無過失の第三者の話になるが、“後”の第三者は登記の競争だ。解除の後に現れた第三者との関係も、同じく対抗関係になる」
「時効はどうなるんですか?」
「二問目だな。前にやっただろう、隣の土地を自分の土地だと信じて長年占有し続けた人の設例。あの占有者をBとする。Bの占有の途中——時効完成前に、元の所有者AがCに土地を売って登記も移した。その後で時効が完成したとき、BはCに登記なしで勝てるか」
エマは慎重に考えた。時効が完成した瞬間、土地の所有者はCになっている。ということは、Bは“Cの土地”を時効取得したことになる。
「Cは、Bの時効取得という物権変動の、いわば当事者側にいる気がします。第三者じゃないなら……登記なしで対抗できる?」
「正解だ。時効完成前の第三者には、登記がなくても時効取得を対抗できる。占有の途中で相手方が入れ替わっただけだからな。逆に、時効完成後にAから買って登記を備えた第三者が相手なら、対抗関係だ。完成の“前か後か”で結論が逆になる。試験はここを執拗に突いてくる」
「最後に相続。AがBに土地を売った後で死んだら、Aの相続人は、Bに『登記がないなら渡さない』と言えるか」
「相続人は、Aの立場をそのまま引き継ぐんですよね。だったら売主本人と同じで、第三者じゃない」
「そのとおり。相続人は当事者の地位を引き継ぐから、177条の第三者には当たらない。Bは登記なしで対抗できる。相続人が何人もいる場合の細かい話は、この先の相続の回でじっくりやる。今日は『相続人は第三者ではない』まで押さえれば十分だ」
エマはノートに図を描いた。真ん中に土地、左右にBとC、その間に「登記」の旗を一本。契約の成立で終わっていた地図に、もう一枚のレイヤーが重なった気がした。
「模試のあの問題、今なら解けます。……というより、落とした七問、ほとんどこのレイヤーが見えていなかったんですね」
「権利関係は十四問ある。半分から先へ行けるかどうかは、物権変動と登記、借地借家、相続で決まる。次は、その登記とやらの実物を見に行こう。法務局だ」
まとめ
- 物権は意思表示のみで移転する(民法176条)が、不動産の物権変動を第三者に対抗するには登記が必要(民法177条)
- 二重譲渡は契約の先後ではなく先に登記を備えた方が勝つ。単なる悪意の第三者にも、登記がなければ対抗できない(例外は背信的悪意者のみ)
- 登記がなくても対抗できる相手は無権利者・不法占拠者・背信的悪意者
- 取消し後・解除後・時効完成後の第三者とは対抗関係(登記の先後)。時効完成前の第三者には登記なしで対抗できる
- 相続人は当事者の地位を引き継ぐため、177条の第三者には当たらない
確認クイズ
1 / 5
Aは自己所有の土地をBに売却した後、Bへの売却の事実を知っているCにも同じ土地を売却し、Cが所有権移転登記を備えた。この場合に関する記述として正しいものはどれ?