相場より三割安い家
「今日は俺の相談に付き合ってもらう」
オルゴールの奥の席に着くなり、ヴィクトルは一枚の販売図面をテーブルに置いた。駅から徒歩八分、築十二年の二階建て。エマは価格欄を見て目を疑った。周辺の似た戸建てより、三割は安い。
「安すぎませんか? 何か事故でもあった物件とか……」
「備考欄を読め」
エマは図面の隅の小さな文字を読み上げた。「土地権利、賃借権。借地権付き建物……? 建物は買うけど、土地は地主から借りたまま、ってことですか?」
「そうだ。買主は建物の所有権と、土地を借りる権利を引き継ぐ。土地代を払っていないから、この値段になる。俺はこれを買うか検討中だ。お前はどう思う」
先週、エマは入居者からの「友人に又貸しさせてほしい」という相談をきっかけに、民法の賃貸借を一通り学んだばかりだった。その知識を総動員して、エマは考え始めた。
地主の気分で追い出されるのでは
まず、期間。民法では賃貸借の存続期間は五十年が上限だと学んだ。土地を借りて、その上に自分のお金で家を建てる。でも契約期間が終わったら、この家はどうなるのだろう。
次に、相手が代わる場合。賃借権も登記すれば第三者に対抗できるはずだけれど、登記は当事者の共同申請が原則だと法務局で教わった。地主が協力してくれなければ、賃借権の登記はできない。地主が土地をよそに売ったら、新しい地主に「私はあなたに貸した覚えはない」と言われてしまうのではないか。
「わかりました」エマはノートから顔を上げた。「これは『地主の気分次第で追い出されるかもしれない家』なんですね。更新を断られたら家ごと退去。土地ごと売られたら対抗もできない。そのリスクの分だけ安い。……危ない物件だと思います」
「結論から言う。半分外れだ」
ヴィクトルはコーヒーカップを置いた。
「民法だけの世界なら、お前の推理はほぼ正しい。五十年の上限があり、対抗力も弱い。自腹で家を建てた人がそんな不安定な立場では、誰も土地を借りて家を建てられない。だから民法を上書きする特別法がある。借地借家法だ。この法律の下では、借地人はお前が思っているより百倍しぶとい」
民法を上書きする特別法
「借地借家法が守るのは、建物の所有を目的とする地上権と土地の賃借権。これをまとめて借地権と呼ぶ。ポイントは目的だ。同じ土地を借りるのでも、青空駐車場や資材置き場のためなら建物所有目的じゃないから民法のまま。タダで借りる使用貸借にも適用されない」
「家を建てるために借りる場合だけの、特別ルールなんですね」
「そうだ。まず期間。民法の上限五十年に対して、借地権の存続期間は最低三十年。契約でもっと長くするのは自由だが、短くはできない。二十年と書いても、期間を決めなくても、三十年になる」
「上限じゃなくて下限……向きが逆なんですね。じゃあ三十年経ったら?」
「満了時に建物が残っていれば、借地人が更新を請求するか、そのまま土地を使い続けるだけで、前と同じ条件で更新したものとみなされる。地主がこれを拒むには、遅滞なく異議を述べるだけでは足りない。異議には正当事由が要る」
「正当事由って、たとえば?」
「地主と借地人がその土地をどれだけ必要としているか、これまでの経過や土地の利用状況、立ち退き料の申し出。それらを総合して判断される。『自分で使いたくなったから』程度では、まず認められない。更新後の期間は最初が二十年、二回目からは十年だ」
「もし正当事由が認められて、更新されなかったら? 家は取り壊しですか?」
「そこにも保険がある。建物買取請求権だ。更新がないときは、借地人は地主に『この建物を時価で買い取れ』と請求できる。請求した瞬間に売買が成立して、地主の承諾は要らない。借地人が建物に注ぎ込んだ財産を、まるごと捨てさせない仕組みだ」
エマはノートに「30年→20年→10年」「異議には正当事由」「買取請求は一方的に成立」と書き込んだ。地主の気分で追い出される、どころではない。
建物の登記が土地を守る
「じゃあ、もう一つの心配は? 地主が土地ごと売った場合です。賃借権の登記がなければ、新しい地主に対抗できないんですよね」
「そこも手当てされている。借地権そのものの登記がなくても、借地の上に借地権者名義で登記した建物を持っていれば、それで第三者に対抗できる。建物の登記なら地主の協力は要らない。自分一人でできるからな」
「建物の登記が、土地を借りる権利の看板代わりになるんだ」
「ただし、名義には落とし穴がある」
「もし建物が火事で燃えたら、看板ごと消えちゃいますよね?」
「その場合は、建物を特定するのに必要な事項などを土地の見やすい場所に掲示すれば、対抗力を保てる。ただし猶予は滅失の日から二年。その間に建物を再築して登記しなければ、そこで途切れる」
安さの正体は「期限」だった
「ここまでが原則の借地権。で、この図面に戻る」ヴィクトルは備考欄の続きを指した。「一般定期借地権、残存三十八年、と書いてある」
「定期……? 更新の話と何が違うんですか」
「更新が、ないんだ。借地人がここまで強いと、地主は一度貸したら土地が半永久的に返ってこない。それでは誰も土地を貸さなくなる。そこで、更新しない代わりに期限をはっきり区切る借地権が三類型、用意されている」
ヴィクトルは手帳に書き出した。
- 一般定期借地権 — 存続期間五十年以上。更新せず、建物買取請求もしない、という特約を書面で結ぶ(公正証書でなくてもよく、電磁的記録でも可)
- 事業用定期借地権 — 十年以上五十年未満。専ら事業用の建物に限る(居住用は不可)。契約は公正証書に限る
- 建物譲渡特約付借地権 — 設定後三十年以上経過した日に、地主が建物を相当の対価で買い取り、借地権を消滅させる
「つまりこの家の安さの正体は、『地主の気分』じゃなくて『期限』なんですね。三十八年後には土地を返す。更新も建物買取請求もない。土地を買っていないうえに、権利に終わりがあるから安い」
「そうだ。危ないから安いんじゃない。リスクの種類が値段に正直に書いてあるだけだ。仕上げに一問。『Aは建物所有目的でBの土地を借り、家を建てて同居する長男C名義で保存登記した。BがDに土地を売った場合、AはDに借地権を対抗できるか』」
「さっきの急所ですね。建物の登記はあっても自分の名義じゃないから、対抗できない、です」
「合格だ。もう一問。『事業用定期借地権の契約を、公正証書ではない普通の書面でした。有効か』」
「無効です。公正証書に限るのは事業用だけ……あれ? でも待ってください。私、部屋を貸している側ですよね。借りる側がこんなに強いなら、大家の私はどうなるんですか」
「いいところに気づいた。次は借家——お前の賃貸経営を直接縛る法律だ。大家に一番不利な法律こそ、大家が一番知るべき法律だよ」
まとめ
- 借地借家法が適用されるのは建物所有目的の地上権・土地賃借権(=借地権)。駐車場目的の賃貸借や使用貸借には適用されない
- 存続期間は最低30年(短い特約は無効)。建物があれば更新請求・使用継続で法定更新され、地主の異議には正当事由が必要。更新後は最初20年・以後10年
- 更新がないときは建物買取請求権で建物を時価で買い取らせることができる(地主の承諾は不要)
- 対抗力は借地上の建物の自己名義の登記で足りる(家族名義は不可)。建物滅失時は掲示で2年間維持できる
- 定期借地権は3類型: 一般(50年以上・書面/電磁的記録可)、事業用(10年以上50年未満・公正証書に限る)、建物譲渡特約付(30年以上)
確認クイズ
1 / 5
Aは建物所有を目的としてBから土地を借り、居住用建物を建てて同居する長男C名義で保存登記をした。BがDにこの土地を売却した場合、AとDの関係について正しいものはどれ?