「二年契約だから、二年で終わる」
オルゴールの奥の席で、エマはノートに定規で線を引いていた。左の列に「借地」、右の列に「借家」。前章で学んだ借地のルール — 存続期間は三十年以上、更新を拒むには正当事由、対抗力は自分名義の建物登記 — を左側に書き込み、右側は空欄のまま今日の講義を待っている。
そこへ、スマホが震えた。管理会社からのメール。「ご所有のお部屋の賃貸借契約が六ヶ月後に満了となります。更新手続きのご案内です」。
「ヴィクトルさん、ちょうどいいタイミングです。うちのワンルーム、契約は期間二年なんですけど — 更新の時期が来たら、こちらの都合で断ることもできるんですよね? 期間が満了するわけだし。いつか自分で住みたくなったり、空室にして売りたくなったりするかもしれないじゃないですか」
ヴィクトルはコーヒーカップを置いた。
「結論から言う。まず無理だ」
大家の「断る自由」はどこにある
「え……無理って。契約書に『期間二年』って書いてあるんですよ?」
「その二年という数字が、お前が思っているほどの力を持っていない。それが今日の話だ」
民法の賃貸借なら、期間が満了すれば終わるはずだ。借地借家法が借地人を三十年単位で守るのは前章で学んだが、あれは「土地を借りて家を建てる人」の話。建物そのものを借りる人には、どのルールが働くのだろう。
「借地借家法の後半戦、借家の章だ」とヴィクトルは言った。「今日はいつもと違って、お前は『守られる側』じゃなく『縛られる側』として聞くことになる。大家に一番不利な法律こそ、大家が一番よく知るべき法律だ」
「一ヶ月前に言えばいい」という誤算
「じゃあ質問だ。仮に断れるとして、いつまでに、どうやって断る?」
「え? 満了の一ヶ月前くらいまでに『更新しません』って通知すれば……」
「アウトだ。二重にな」ヴィクトルは指を二本立てた。「第一に時期。賃貸人からの更新拒絶の通知は、期間満了の一年前から六ヶ月前までの間にしなければならない。一ヶ月前ではまるで遅い。通知を忘れれば契約は同じ条件で自動的に更新される。法定更新といって、更新後は期間の定めのない契約になる」
「一年前から六ヶ月前……ずいぶん手前で動くんですね。で、二つ目は?」
「第二に中身。期日どおりに通知しても、そこに正当事由がなければ更新拒絶は認められない。貸す側と借りる側、どちらがその建物をより必要としているか。これまでの経緯、建物の利用状況や現況、立退料の申し出。そういった事情の総合判断だ。『いつか自分で住みたい気がする』程度では、まず通らない」
「立退料をたくさん払えば、正当事由になるんじゃ?」
「ならない。立退料はあくまで他の事情を補う材料だ。札束だけで借主を追い出せる仕組みにはなっていない」
エマは唸り、別の抜け道を思いつく。
「じゃあ次に貸すときは半年契約にします。満了がすぐ来るなら、断るチャンスも増えますよね?」
「残念だが、一年未満の期間を定めた建物賃貸借は、期間の定めのない賃貸借とみなされる。半年という定めは『なかったこと』になる。そして期間の定めのない契約を賃貸人から終わらせるには、解約申入れから六ヶ月、プラスやはり正当事由が要る。前章の借地は、短すぎる期間が三十年に引き上げられただろう。借家は引き上げではなく『定めごと消される』。ここは対比で覚えろ。ちなみに長い側の上限はない。民法の五十年上限は建物の賃貸借には適用されない」
「借りる側から出て行くのは簡単なんですか?」
「期間の定めがなければ、賃借人からの解約申入れは三ヶ月で終了する。正当事由も要らない。守られているのはあくまで借りる側、という設計だ」
鍵を受け取った人は、それだけで守られる
「じゃあ対抗力はどうなんですか。借地では、借地上の建物を自分名義で登記していないと第三者に対抗できませんでしたよね。借家だと……賃借権の登記?」
「いい質問だ。だが答えはもっと単純で、建物の賃貸借は引渡しさえあれば対抗できる。つまり鍵を受け取って住んでいれば、その建物が売られて大家が替わっても、新しい所有者に『私は借りています』と主張できる。登記は要らない」
「引渡しだけ……! 借りる人が登記なんてしないですもんね」
エマはノートの右列に「対抗力=引渡し」と書き込み、左列の「自己名義の建物登記」と線で結んで「借地と借家で違う!」と赤で添えた。
「もう一つ、大家として知っておくべき権利がある。この前、入居者からエアコンを付け替えたいと相談が来ていたな」
「来ました。許可しましたけど」
「賃貸人の同意を得て建物に付け加えた畳や建具、エアコンのようなものを造作という。契約が終わるとき、賃借人はそれを時価で買い取れと請求できる。造作買取請求権だ。ただし — この権利は特約で排除できる。実務の契約書はほぼ例外なく排除している。一方で、さっきの正当事由や更新のルールは特約では外せない。借主に不利な特約は無効になる。どの権利が特約で外せて、どれが外せないか。試験はそこを執拗に突いてくる」
「家賃はどうなんですか? 『ずっと据え置き』みたいな特約は」
「方向で決まる。『増額しない』特約は有効、『減額しない』特約は無効だ。借主に有利な方向なら守られ、不利な方向なら守られない。徹底して借主側に立つ法律なんだ」
期限どおりに終わる部屋 — 定期建物賃貸借
「大家って、一度貸したら二度と返ってこない覚悟が要るんですね」
「普通の借家契約ならな。だが、どうしても期限どおりに終わらせたい貸主のために、更新のない契約が用意されている。定期建物賃貸借だ。転勤の間だけ自宅を貸したい、といったときに使う。ただし要件が厳しい」
ヴィクトルは紙ナプキンに箇条書きを並べた。
- 書面(電磁的記録でもよい)で契約すること
- 契約の前に、「更新がなく、期間満了により終了する」ことを、契約書とは別の書面を交付して説明すること。この説明を怠ると、更新がないという定めは無効 — つまり、ただの普通借家になってしまう
- 期間が一年以上なら、満了の一年前から六ヶ月前までに「終わります」という通知が必要
- 床面積二百平方メートル未満の居住用建物なら、転勤・療養・親族の介護などやむを得ない事情で住めなくなった賃借人は中途解約を申し入れられ、申入れから一ヶ月で終了する
- 賃料改定の特約を定めれば増減額請求の規定は適用されない。つまり普通借家では無効だった減額請求の排除も、定期ならできる
「説明を忘れただけで、更新なしの約束ごと消えるんですか……こわ」
「だから実務では説明書面を必ず残す。似た仕組みに、法令や契約で取壊しが決まっている建物につき、取壊しの時に賃貸借が終わる特約を書面で結べる、というものもある」
過去問の壁に挑む
「よし、腕試しだ」ヴィクトルは手帳を開いた。「設例一。AはBに居住用建物を期間二年で賃貸した。定期建物賃貸借ではない。Aは期間満了の三ヶ月前にBへ更新しない旨を通知したので、正当事由がなくても契約は満了により終了する。○か×か」
「×です。三ヶ月前じゃ遅いし、期日を守っても正当事由がなければ拒絶できません。二重に誤りです」
「正解。設例二。床面積百八十平方メートルの居住用建物の定期建物賃貸借で、転勤により住めなくなった賃借人は、中途解約を申し入れ、申入れから一ヶ月の経過により契約を終了させられる。○か×か」
「二百平方メートル未満の居住用で、転勤はやむを得ない事情だから……○です!」
「上出来だ。数字が三百平方メートルに替わっていたら×になる。そこまで見えていれば本試験でも取れる」
エマはノートの比較表を眺めた。左に借地、右に借家。空欄だった右列は、もうすべて埋まっている。大家にとっては重たい法律だ。でも、重さを知っているからこそ、定期借家のような設計もできる。
「それで、更新の案内はどうするんだ」
「もちろん更新します。家賃を一度も遅れたことのない、大事な入居者さんですから」エマは笑ってスマホを取り出した。「断る自由がないから更新するんじゃなくて、大家として更新したいから更新する。今日からはそう言えます」
「いい答えだ」ヴィクトルはコーヒーを飲み干した。「次は、その部屋が入っている建物まるごと — マンション一棟が誰のものか、という話をしよう」
まとめ
- 借家の期間: 1年未満の定めは「期間の定めなし」とみなされる(借地のような引き上げではない)。上限はない
- 賃貸人からの更新拒絶は満了の1年前〜6ヶ月前の通知+正当事由。解約申入れは賃貸人から6ヶ月+正当事由、賃借人から3ヶ月
- 建物賃借権の対抗力は引渡しで足りる(登記不要)。借地の「自己名義の建物登記」と区別する
- 造作買取請求権は特約で排除できるが、正当事由は特約で外せない。不増額特約は有効・不減額特約は無効
- 定期建物賃貸借は書面契約+事前の書面交付説明(説明を怠ると普通借家に)。200㎡未満の居住用はやむを得ない事情で中途解約可(申入れから1ヶ月で終了)
確認クイズ
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AがBに居住用建物を期間6ヶ月と定めて賃貸した(定期建物賃貸借ではない)。この契約の期間はどうなるか。