土地と建物の権利

第8章

相続は突然やってくる

法定相続分・代襲相続・承認と放棄・遺言と遺留分・配偶者居住権

止まった売買

夕方のオルゴール。エマが管理組合の総会資料をノートに貼り付けていると、ヴィクトルが少し遅れて奥の席にやってきた。座るなり、めずらしく前置きなしに切り出す。

「エマ、あのアパートを覚えてるか。君が契約直前で見送った、例の物件だ」

忘れるはずがない。おかしな違約金条項と、消えていない抵当権。エマが宅建に挑むきっかけになったアパートだ。

「駅前の不動産会社に、ハンナさんという現役の宅建士がいてね。俺の取引先なんだが、彼女から聞いた。あの物件、その後べつの買主と契約寸前まで進んで——止まったそうだ。売主のおばあさんが亡くなった」

「えっ……。じゃあ、あの売買はどうなるんですか?」

「アパートは相続人のものになる。ところが、その相続人が何人もいて、誰がどれだけ相続するかで話がまとまらない。全員の合意——遺産分割協議が成立するまで、売買は一歩も動かない。ハンナさん曰く『不動産取引が止まる理由の定番は相続』だそうだ」

誰が、どれだけ、どうやって

エマはノートを開いた。先週書いた「専有部分・共用部分」のページの続きに、「相続」と書き込む。

「考えてみたら、先週勉強したマンションの専有部分だって相続財産になるんですよね。私のワンルームも、私に万一のことがあれば誰かが相続する。……でも私、誰が・どれだけ・どうやって相続するのか、何ひとつ知りません」

「それが今日のテーマだ。結論から言う。人が亡くなった瞬間、その人の財産も借金も、まるごと相続人に移る。不動産も預金もローンもだ。そして『誰が・どれだけ』は、法律があらかじめ決めている」

「長男が全部」の思い込み

「でも、相続って長男が全部もらうのが普通じゃないんですか? うちの実家もそんな雰囲気でしたけど」

「それは戦前の家督相続のイメージだな。今の民法は違う。まず配偶者は常に相続人になる。そして配偶者と並んで相続する血族には順位がある。第1順位が子。子がいなければ第2順位の直系尊属——親や祖父母だ。それもいなければ第3順位の兄弟姉妹」

「長男も次男も娘も、同じ『子』……」

「そうだ。子が複数いれば、子に割り当てられた分を頭数で等分する。長男だから多い、ということはない。この取り分——法定相続分は、誰と誰の組み合わせかで決まる」

「相手が遠い血族になるほど、配偶者の取り分が2分の1、3分の2、4分の3と増えていく、と覚えるといい。あのアパートの売主のおばあさんは、夫に先立たれ、子が3人。うち1人はすでに亡くなっていて、その子——おばあさんから見れば孫——が2人いたらしい」

「先に亡くなった子の取り分は、どうなるんですか? 消えちゃう?」

「消えない。代襲相続といって、先に死亡した子の取り分は、その子の子、つまり孫がそっくり引き継ぐ。孫も死亡していればひ孫へと、子の系統はどこまでも下っていく。ただし兄弟姉妹が相続人の場合の代襲は、その子——甥・姪までの一代限りだ」

借金も「まるごと」来る

「待ってください。さっき『借金もまるごと移る』って言いましたよね。あのアパートには抵当権が付いてました。相続人は、借金も背負わされるんですか?」

「何もしなければ、そうなる。だから民法は選ばせてくれる。相続人は、自分のために相続の開始があったことを知った時から3ヶ月以内に、3つの中から選ぶ。そのまま全部受け継ぐ単純承認。プラスの財産の範囲内でだけ借金を清算する限定承認。全部いらないと降りる放棄。この3ヶ月を熟慮期間という」

「3ヶ月、悩んでいいんですね」

「ただし何もせずに3ヶ月が過ぎれば、単純承認をしたものとみなされる。放っておくと『まるごと』が確定するんだ。限定承認は相続人全員が共同でなければできない。放棄は1人でもできて、家庭裁判所に申述する。そして放棄した者は、初めから相続人でなかったものとみなされる

「初めからいなかったことに……。あ、じゃあ放棄した人に子どもがいたら、その子が代襲するんですか?」

「しない。そこが本試験の定番のひっかけだ。代襲相続が起きる原因は、死亡・欠格・廃除の3つだけ。放棄は代襲原因にならない。初めから相続人でなかった者の系統には、何も流れていかない」

遺言と、遺言でも奪えないもの

「揉めるくらいなら、おばあさんが遺言を書いておけばよかったのに」

「その通りだ。遺言は15歳からできる。全文を自分で手書きする自筆証書遺言なら1人で作れる——いまは方式が緩和されて、添付する財産目録だけはパソコンで作ってもいい。ただし自筆証書は原則として家庭裁判所の検認という手続きが必要になる。公証人に作ってもらう公正証書遺言なら、検認は要らない」

「遺言さえあれば、『全財産を長男に』でも『全財産を赤の他人に』でも、その通りになるんですか? ほかの家族はゼロ?」

「ゼロにはできない。兄弟姉妹以外の相続人には遺留分——遺言でも奪えない最低限の取り分が保障されている。侵害された相続人は、もらいすぎた相手に金銭の支払いを請求できる。遺留分侵害額請求といって、現物の取り戻しではなく金銭債権だ。逆に言えば——」

「兄弟姉妹には、遺留分がない?」

「ない。これも頻出だ。それからもうひとつ、残された配偶者を守る配偶者居住権という権利がある。夫名義の家に住んでいた妻が、建物の所有権を相続しなくても、原則として終身、無償でその家に住み続けられる。登記すれば第三者にも対抗できる。ただし譲渡はできない」

ノートの上の相続図

「よし、練習だ。被相続人Aに、配偶者Bと子C・Dがいる。Cは家庭裁判所で相続放棄をした。CにはE——Aから見れば孫——がいる。Bの相続分は?」

エマはノートに家系図を描いた。放棄したCは、初めから相続人でなかったことになる。だからEは代襲しない。残る相続人はBとD。配偶者と子の組み合わせだから、2分の1ずつ。

「Bが2分の1、Dが2分の1。Eはゼロ、です」

「正解だ。もう一問。子も親もいないAが『全財産を配偶者Bに相続させる』と遺言して亡くなった。Aの兄Cは、Bに遺留分を請求できるか?」

「兄は……兄弟姉妹だから、そもそも遺留分がない。請求できません!」

「完璧だ。あのアパートの件も、ハンナさんの会社が相続人全員の間を粘り強く調整しているらしい。相続は突然やってくる。だが、備え方も揉めたときのルールも、法律に全部書いてある。——さて、権利関係も残りわずかだ。次は、契約も相続もないのに、ある日突然責任だけが生まれる話をしよう」

まとめ

確認クイズ

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法定相続人と法定相続分に関する記述のうち、誤っているものはどれ?