「友人に又貸ししたい」というメール
火曜の夜、エマのスマホに管理会社からメールが届いた。1戸目のワンルームの入居者からの相談だという。「半年間の海外出張が決まったので、その間、友人に部屋を貸したい。家賃は自分が責任を持って払い続ける」——。
エマは返事を保留したまま、週末のオルゴールに駆け込んだ。
「又貸しですよ、又貸し。ダメに決まってますよね? でも、ダメって言い切れる根拠を聞かれたら、私、答えられないんです」
ヴィクトルはカップを置いて、少し面白そうにエマを見た。
「前回、抵当権が実行されても賃借人には競売から6ヶ月の明渡し猶予がある、という話をしたな。あのとき『借りる人はそこまで守られてるんですね』と驚いていただろう。ちょうどいい。今日は貸し借りの法律を根本からやろう。民法の賃貸借だ」
大家なのに、貸し借りのルールを知らない
エマはノートに、自分が答えられなかったことを書き出してみた。
又貸し——正しくは転貸というらしい——を断れるのか。断ったのに勝手にやられたらどうなるのか。逆に認めた場合、又借りする友人とは何の契約もないのに、家賃を直接請求できるのか。それから、退去のときの敷金。エアコンが壊れたときの修理代。どれも管理会社に任せきりで、法律上どうなっているのか、考えたことすらなかった。
「私、大家なのに、貸し借りの法律を何も知らないんですね……。契約書に書いてあるから、で思考停止してました」
「契約書の背後には必ず民法がある。そして賃貸借は権利関係の頻出分野だ。大家として答え合わせしながら学べるお前は、受験生としては有利だよ」
エマの二連敗
「でも転貸だけは、答えが見えてます」とエマは胸を張った。「無断で又貸しされたら、即解除。信頼を裏切ったんだから当然です。それと退去のときは、敷金の返還と鍵の返却は同時交換。前に、売買では代金の支払と登記は同時履行だって学びましたよね。あれと同じです」
ヴィクトルはすぐには訂正せず、コーヒーを一口飲んだ。
「二つとも、半分だけ正解だ。そして試験では、その半分の間違いこそが狙われる」
「えっ、どっちもですか?」
「まず転貸。民法は、賃借権を譲渡したり転貸したりするには賃貸人の承諾が要る、無断でやれば解除できる、と定めている。ここまではお前の言う通りだ。だが判例は、無断転貸でも背信的行為と認めるに足りない特段の事情があるときは解除できない、とした。たとえば個人商店の店主が節税のために会社を作り、その会社名義で同じ店を続けたような場合。使う実態がほとんど変わらないなら、信頼は裏切られていない、というわけだ」
「無断でも、常に解除できるわけじゃないんだ……」
「敷金のほうの間違いは、この後まとめて叩き直す。先に言っておくと、同時交換ではない」
貸し借りは信頼でできている
「結論から言う。賃貸借のルールは、貸主と借主の信頼関係を軸に組み立てられている。順番に行くぞ」
ヴィクトルはナプキンに三角形を描いた。頂点に「賃貸人A」、左下に「賃借人B」、右下に「転借人C」。
「承諾を得た適法な転貸では、AとCの間に契約はない。だが民法は、CはAに対して直接に義務を負うと定めた。Aは家賃をCに直接請求できる。ただし請求できる額は、AB間の賃料とBC間の転借料の、低いほうが限度だ。CがBに転借料を前払いしていても、Aには対抗できない」
「じゃあ、AB間の契約が終わったら、Cはどうなるんですか?」
「終わり方で運命が分かれる。AとBが合意解除した場合、AはそれをCに対抗できない。つまりCを追い出せない。頭の上の契約を当人同士の合意だけで消して、Cを放り出せたら、あまりに気の毒だからだ。逆に、Bの賃料不払いなどの債務不履行で解除された場合は、Cに対抗できる。Cは出ていくしかない」
「次に敷金だ。2020年施行の改正民法で明文化された。敷金の返還義務が生じるのは、賃貸借が終了して、かつ、明渡しが完了したとき。つまり明渡しが先で、敷金の返還は後。同時履行の関係には立たない」
「同時交換じゃない……。でも、なんでですか? 売買の代金と登記は同時履行なのに」
「敷金は、未払賃料や部屋の損傷の賠償を担保するための金だからだ。部屋が返ってきて初めて、差し引くべき額が確定する。だから明渡しが先なんだ。ついでに言うと、借主が家賃を滞納したとき、貸主の側からは敷金を当然に充当できるが、借主のほうから『敷金があるから家賃はそこから引いてくれ』とは主張できない」
「修繕と費用の話は、大家のお前には切実だぞ。雨漏りのような修繕は、原則として賃貸人の義務。ただし借主の不注意で壊れたのなら、貸主に修繕義務はない。改正では借主側の修繕権も明文化された。修繕が必要だと通知したのに貸主が相当な期間内に直さないとき、または急迫の事情があるときは、借主が自分で修繕できる」
「もし借主が修理代を立て替えたら、どうなるんですか?」
「費用は二種類に分けて覚える。雨漏り修理のような必要費は、直ちに全額を償還請求できる。物の価値を高める有益費は、賃貸借の終了時に、価値の増加が残っていれば請求できる。支出額か増加額か、どちらを払うかは貸主が選ぶ。さらに、借主に落ち度のない事由で部屋の一部が使えなくなったときは、賃料はその割合に応じて当然に減額される。改正前は『減額を請求できる』だったが、今は請求しなくても当然に、だ」
「最後に二つ。民法の賃貸借の存続期間は最長50年。それより長く定めても50年に縮む。改正前は20年だったのが延ばされた。もっとも、建物や宅地の貸し借りには借地借家法という特別法がかぶさって話が大きく変わる。それは次回だ。もう一つ、タダで貸す使用貸借は賃貸借とは別物だ。無償だから借主の保護は薄い。借主が死ねば契約は終了して相続されないし、第三者への対抗力もない」
過去問の三角形
「じゃあ腕試しだ」とヴィクトルは言った。「AはBに建物を賃貸し、BはAの承諾を得てCに転貸した。AB間の賃貸借がBの賃料不払いを理由に解除された場合、AはCに明渡しを請求できる。○か×か」
エマはさっきの三角形をノートに描き直した。終わり方で運命が分かれる。合意解除なら対抗できない。でもこれは債務不履行解除——。
「○です。債務不履行による解除は、転借人に対抗できます」
「正解。もう一問。賃貸借の終了後、借主は敷金の返還を受けるまで建物の明渡しを拒むことができる。○か×か」
「×。明渡しが先履行だから、同時履行の抗弁は使えません」
「よし。二連敗が二連勝になったな」
エマはノートを閉じて、管理会社への返事を考えた。無断でやる前に相談してくれたのだから、入居者は誠実だ。承諾したうえで、誰が住むのかを確認し、転借人も自分に直接義務を負うことを文書で整理しておけばいい。断るか断らないかの二択でおびえていた昨日より、ずっと視界がクリアだった。
「ダメと言い切る根拠を探しに来たのに、認めるための段取りを持って帰ることになるとは思いませんでした」
「それが法律を知るということだ。武器は振り回すためじゃなく、安心して手を差し出すためにある」
まとめ
- 賃借権の譲渡・転貸には賃貸人の承諾が必要。無断なら解除できるが、背信的行為と認めるに足りない特段の事情があれば解除できない
- 適法な転貸では、転借人は賃貸人に直接義務を負う(請求できるのは賃借料と転借料の低いほうまで)。合意解除は転借人に対抗できず、債務不履行解除は対抗できる
- 敷金の返還は明渡しが先履行(同時履行ではない)。未払賃料への充当は貸主からは当然にできるが、借主からは主張できない。大家が交代すれば敷金関係は新しい大家に承継される
- 修繕は原則として賃貸人の義務(借主に帰責事由があれば負わない)。必要費は直ちに、有益費は終了時に償還請求。借主に落ち度なく一部が使えなくなれば賃料は当然に減額。存続期間は民法上、最長50年
- 使用貸借(タダ借り)は保護が薄い。借主の死亡で終了し、対抗力もない
確認クイズ
1 / 5
敷金に関する記述として、民法の規定および判例によれば正しいものはどれか。