消えた家賃
火曜日の夜。エマはオルゴールの奥の席に座るなり、挨拶も忘れてスマホの画面をヴィクトルに向けた。
「家賃が、入ってないんです。先月も、今月も」
一戸目のワンルーム。管理会社経由で振り込まれるはずの家賃が、二ヶ月続けて入金されていない。問い合わせると、答えは予想外だった。入居者は「払いました」と言っている。先月退職したはずの元担当者が「今月から集金に切り替わりました」と部屋を訪ね、入居者は二ヶ月分を現金で手渡していたのだ。手書きの領収書まで受け取って。
「入居者さんは払ったつもり。でも私には一円も届いていない。……この場合、損をかぶるのはどっちなんですか?」
「いい題材が来たな」ヴィクトルはエマにノートを開くよう促した。「先週までは、買主として代金や手付をいくら払うか、という話だった。今日はその手前だ。そもそも『払う』とはどういうことか」
「払う」は当たり前のことじゃなかった
「正直、盲点でした」エマはペンを握った。「払うなんて当たり前のことだと思っていたんです。でも、誰に払えば『払った』ことになるのか。他人が代わりに払ってもいいのか。貸し借りが両方あるとき差し引きで済ませていいのか。——何ひとつ答えられません」
「結論から言う。民法は『払う』ことを弁済と呼んで、細かいルールを置いている。今日は弁済と、差し引きの相殺、それから受け取る権利そのものを売り買いする債権譲渡。この三つを一気に片づける」
「敷金から引けばいい」の勘違い
「でも」とエマは食い下がった。「最悪、敷金がありますよね。滞納になっても、敷金から自動的に引かれていくんですよね? 二ヶ月分預かっているから、実害はまだゼロというか……」
「二重に間違えている」ヴィクトルは即座に首を振った。「まず、敷金は自動では引かれない。賃貸人は滞納家賃に敷金を充てることができるが、義務じゃない。精算の基本は、部屋の明渡しを受けた時だ。もうひとつ。入居者の側から『敷金から引いておいてください』と請求することはできないと、民法にはっきり書いてある」
「えっ、どうしてですか? 預けているのは入居者のお金なのに」
「それを許したら、敷金は最初の数ヶ月で空になって、担保の意味がなくなるからだ。敷金は大家側の保険だからな。——それに、今回の件はそもそも『滞納』なのか? 入居者は『払った』と言っているんだぞ」
誰に払えば「払った」ことになるのか
「弁済が有効になるには、受領権限のある相手に払うのが大原則だ。債権者本人か、集金を任された管理会社。元担当者は退職済みで権限がない。権限のない者に払っても原則として弁済は無効。つまり入居者の家賃債務は消えず、君はもう一度請求できる」
「よかった……」
「ただし、例外がある」ヴィクトルはノートの端を指した。「権限はないが受領権者としての外観を持つ者——いかにも権限がありそうに見える者に払った場合、払った側が善意無過失なら、その弁済は有効になる。何年も集金に来ていた顔なじみの担当者で、退職を知らされておらず、疑う事情もなかった——それなら弁済は有効で、君は入居者に二重払いを請求できない。回収の相手は、持ち逃げした元担当者だ」
「払った側が保護されるんですね……。94条2項の善意の第三者と同じで、信じた人を守る発想だ」
「そのとおり。次は逆に、他人が代わりに払う場合——第三者弁済だ。たとえば入居者の母親が『息子の滞納分は私が』と言ってきたら、受け取っていいか?」
「回収できるなら誰でも大歓迎ですけど……ダメなんですか?」
「原則は、第三者も弁済できる。ただし、弁済について正当な利益を持たない第三者——親や友人は情があっても法律上の利益はない——は、債務者の意思に反して弁済できない。息子本人が拒んでいるなら、母親の弁済は原則無効だ。もっとも、債務者の意思に反することを債権者が知らなかったのなら有効になる。さらにこの第三者は、債権者の意思に反しても原則弁済できない。こちらは、債務者に頼まれた第三者だと債権者が知っていた場合だけ有効だ」
差し引きで済ませる——相殺の条件
「次は相殺だ。入居者が、大家負担のはずの給湯器の修理代十万円を立て替えていて、『来月の家賃と差し引きにします』と言ってきたとする。これが相殺。お互いが同じ種類の債権を持ち合っているとき、一方からの意思表示ひとつで対当額を消し合える」
「意思表示ひとつで……時効の援用と同じ仲間ですね」
「いい復習だ。そして相殺には条件がある。相殺適状——互いの債権が同種で、弁済期にあること。ただし、ここが試験のツボでな。弁済期が来ていなければならないのは、自働債権だけだ」
「じどうさいけん……?」
「相殺を仕掛ける側が相手に請求できる債権が自働債権。仕掛けられて消される側、つまり自分が払うべき債務が受働債権だ。自働債権の弁済期が来ていないのに相殺したら、相手から期限前に取り立てるのと同じになるから許されない。逆に受働債権は自分が払う側だから、期限の利益を放棄して前倒しで払うのは自由。だから受働債権の期限がまだでも相殺できる」
「それと、相殺が禁止される場面も覚えておけ。悪意による不法行為の損害賠償と、人の生命・身体の侵害による損害賠償。この債務を負う側からは相殺できない。被害者には現実にお金を受け取らせるべきだからだ。逆に、被害者の側がこれらを自働債権として相殺するのは構わない。もうひとつ。差し押さえられた債権の債務者も、差押え前に取得した債権による相殺なら、差押債権者に対抗できる」
家賃を受け取る権利は、売れる
「最後は、受け取る権利そのものを動かす話だ。債権は原則、自由に譲り渡せる。滞納家賃の債権を回収業者に売る、といった形で日常的に行われている」
「私の家賃の払い先が、知らないうちに変わるかもしれないんですか?」
「そうだ。だから債務者を守る仕組みがある。譲受人が債務者に譲渡を主張するには対抗要件——譲渡人からの通知か、債務者の承諾が要る。注意しろ、通知は譲渡人からだ。譲受人が自分で通知しても効力はない。譲受人を名乗る詐欺を防ぐためだ。そして債権が二重に譲渡されたときの譲受人同士の優劣は、確定日付のある証書による通知・承諾で決まる」
「契約書に『この債権は譲渡禁止』と書いてあったらどうなるんですか?」
「譲渡制限特約だな。改正前は無効とされていたが、今は譲渡自体は有効だ。ただし、特約を知っていたか、重大な過失で知らなかった譲受人に対しては、債務者は支払いを拒めるし、元の債権者に払って債務を消すこともできる」
ノートの上で腕試し
「仕上げに過去問風でいくぞ。AはBに対して貸金債権百万円(弁済期到来済み)、BはAに対して売買代金債権百万円(弁済期は来月末)を持つ。AとB、それぞれ相殺できるか」
エマはノートに向かい合う矢印を二本引いた。
「Aから相殺する場合、自働債権は貸金で、弁済期は来ています。受働債権の代金は期限前だけど、Aが期限の利益を放棄して先に払う分には自由。——できる。Bから相殺する場合、自働債権の代金はまだ弁済期が来ていない。期限前の取り立てになるから——できない」
「正解だ。同じ状態でも、どちらから仕掛けるかで結論が変わる。もう一問。AがBに対する債権を、譲渡制限特約を知っているCに譲渡した。譲渡は有効か? BはCに払わなければならないか?」
「譲渡は……有効。でもCは悪意だから、Bは支払いを拒めるし、Aに払って債務を消してもいい」
「完璧だ。消えた家賃の件は、入居者が本当に善意無過失だったかの確認と、管理会社への責任追及から始めろ。泣き寝入りする話じゃない」
エマはノートの新しいページに「払い方のルール」と書き込んだ。契約の入口ばかり追いかけてきたけれど、お金が動く出口にも、これだけのルールがあった。
「次回は、他人の借金を背負い込む話——保証と連帯債務だ。今日の相殺が、思わぬ形でもう一度顔を出すぞ」
まとめ
- 弁済の相手は受領権限のある者が原則。受領権者としての外観を持つ者への弁済は、弁済者が善意無過失なら有効
- 正当な利益のない第三者は、債務者の意思に反して弁済できない(債権者が善意なら有効)。債権者の意思に反する弁済も原則不可
- 相殺は自働債権の弁済期到来が必須。受働債権は期限の利益を放棄すれば期限前でも相殺できる
- 悪意の不法行為・生命身体の侵害による損害賠償債務を受働債権とする相殺はできない(被害者側が自働債権とするのは可)
- 債権譲渡は原則自由で、譲渡制限特約があっても有効。債務者への対抗要件は譲渡人からの通知または債務者の承諾、第三者との優劣は確定日付のある証書で決まる
確認クイズ
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相殺に関する記述として正しいものはどれ?