契約のちから

第6章

約束が破られた日

債務不履行(履行遅滞・履行不能)、損害賠償、契約の解除、危険負担

引渡しが、延びた

その日のオルゴールは、朝から雨だった。エマは窓際の奥の席で、一通の書面をテーブルに広げていた。数週間前から資料を取り寄せていた郊外の建売住宅。その売主から届いた「工事の遅れにより、お引渡しは約一ヶ月延期となる見込みです」という通知だった。

「まだ買うと決めたわけじゃないんです。でも、もし契約した後でこれが届いたらと思うと、ぞっとして。約束の日に家が引き渡されないのに、買主は指をくわえて待つしかないんですか?」

ヴィクトルは書面を一瞥して、コーヒーを置いた。

「先週までは時効、つまり時が過ぎるのを待つ話だった。今日は、約束が破られた日に何ができるかの話だ。民法ではこれを債務不履行と呼ぶ」

「さいむ、ふりこう……」エマはノートに書き取る。債務、つまり約束した義務が、履行されない。

「型は大きく二つ。約束の期日に遅れる履行遅滞と、もう果たすこと自体ができなくなった履行不能だ。この通知は、遅滞の予告だな」

「売主が悪くないなら、諦めるしかない?」

「でも……」エマは書面の「資材調達の遅延のため」という一文を指でなぞった。「遅れた理由が、たとえば地震とか、世界的な資材不足とか、売主のせいじゃなかったら? 売主が悪くないなら、買主は契約をやめられないですよね。ほら、『不可抗力ですので』ってやつです」

「結論から言う。やめられる。

エマのペンが止まった。「えっ。相手は悪くないのに、ですか?」

「そこが、多くの受験生が引っかかるところだ。整理しよう。約束が破られたとき、買主の手には二本の剣がある。一本目が損害賠償、二本目が解除。この二本は、抜くための条件がまるで違う」

賠償の剣と、解除の剣

「一本目、損害賠償。遅れたせいで生じた損害——たとえば引渡しが延びた分の仮住まいの家賃——を金銭で償わせる。ただしこちらは、債務者に帰責事由がないときは免れる。契約や取引上の社会通念に照らして売主を責められない事情、たとえば地震で工事が止まったのなら、売主は賠償までは負わない」

「じゃあ、二本目の解除は……」

「**債務者の帰責事由は不要だ。**改正前の民法では解除にも帰責事由が必要と考えられていたが、今は違う。解除は債務者への罰ではなく、破られた契約から債権者を解放するための出口だからだ。売主が悪かろうが悪くなかろうが、家が来ない以上、買主がいつまでも契約に縛られる筋合いはない」

エマはノートに二本の剣を描いた。賠償の剣=相手の責任を問う→帰責事由が必要。解除の剣=自分が契約から出る→帰責事由は不要。

「ただし、解除には手順がある。原則は催告解除だ。相当の期間を定めて『履行してくれ』と催告し、その期間内に履行がなければ解除できる。ただし、期間が過ぎた時点での不履行が契約や取引通念に照らして軽微なら、解除まではできない。一方で、全部が履行不能になったときや、債務者が履行しないという意思を明確に示したとき、その日を逃したら意味がない定期行為——クリスマスイブに届かなかったケーキだな——のときは、催告なしで直ちに解除できる。無催告解除という」

「催告が要るのは、相手にもう一度チャンスをあげるためなんですね」

「そうだ。そして逆向きのルールがひとつ。不履行が債権者の責めに帰すべき事由によるものなら、債権者からは解除できない。自分で約束を壊しておいて、出口だけ使うことは許されない」

「もうひとつ、お金の約束だけは特別ルールがある。金銭債務の不履行は、不可抗力を理由に免れることができない。災害で振り込めませんでした、は通らない。しかも債権者の側は損害の証明が不要で、遅れた期間に応じて法定利率——約定利率がそれより高ければ約定利率——で計算した遅延損害金を請求できる」

「お金にだけ、やけに厳しい……」

「金はどこかから調達できるはずだ、という法律の割り切りだ。それから、当事者はあらかじめ賠償額の予定を決めておける。違約金の定めは、賠償額の予定と推定される。——君が最初に見て青ざめた、あのアパート契約書の違約金条項。あれの正体は次回、手付とセットで読み解こう」

解除のあとの世界と、先に現れた第三者

「解除すると、契約はどうなるんですか。なかったこと、ですか?」

「契約は初めに遡って消え、お互いに原状回復——受け取ったものを返し合う義務を負う。ここで問題になるのが第三者だ。たとえば君が土地を売り、買主が代金を払わないので解除したとする。ところが解除より前に、買主がその土地を第三者に転売していたら?」

「代金も払っていない人からの転売なんて、当然取り返せるでしょう」

「**解除前に現れた第三者は、善意でも悪意でも保護される。**ただし、登記を備えていることが条件だ。裏返せば、事情を何も知らない善意の第三者でも、登記がなければ負ける」

エマはノートに、詐欺の第三者と解除の第三者を並べた比較表を作った。守られる条件が、片方は心の中、片方は登記簿。同じ「第三者」でも物差しが違う。

隣の家が燃えたら

「最後に思考実験だ」ヴィクトルは建売住宅のチラシを指した。「君がこの家を契約し、引渡しの一週間前に、隣家からのもらい火で建物が全焼した。売主にも君にも落ち度はない。さて、代金は払うのか」

エマは考えた。家は消えた。引渡しはもう不能。売主に帰責事由はないから損害賠償は請求できない。でも、解除に帰責事由は要らないから——

「解除できます! 全部履行不能だから、催告もなしで。……あれ、でも解除の通知をする前に代金を請求されたら?」

「いい疑問だ。それが危険負担。当事者双方の責めに帰することができない事由で履行が不能になったとき、債権者は反対給付の履行を拒むことができる。つまり、解除を待たずとも、代金の支払いを求められたら『払いません』と拒める」

「じゃあ、もし引渡しのに燃えたら?」

「引渡しによって危険は買主に移る。引渡し後に双方無責で滅失しても、買主は代金の支払いを拒めない。だから実務では、引渡しと登記と残代金の決済を同じ日にまとめてやるんだ」

エマは延期通知をもう一度見た。遅れたら催告して解除。燃えたら支払い拒絶か解除。買主は、思っていたほど丸腰ではなかった。

「契約は、破られることがある」ヴィクトルは静かに言った。「破られた日に自分が何を持っているかまで知っている者だけが、安心してハンコを押せる」

まとめ

確認クイズ

1 / 5

履行遅滞となる時期に関する記述のうち、誤っているものはどれか。