二十年もののプレハブ物置
火曜の夜、オルゴールの奥の席。エマはコーヒーが来る前から、週末の帰省の話を始めていた。
「実家の庭の隅に、お隣さんのプレハブ物置が建ってるんですよ。私が小学生の頃からだから、もう二十年以上。『うちも使ってない場所だし』って母は笑ってましたけど」
雑談のつもりだった。だがヴィクトルはカップを置き、真顔になった。
「結論から言う。放っておくと、その庭の一角は隣人のものになるかもしれない」
「……えっ? だって、うちの土地ですよ? 登記だって実家の名義です」
「二十年間、所有の意思をもって平穏かつ公然に他人の土地を占有し続けた者は、その所有権を時効で取得できる。民法にそう書いてある。登記の名義が誰かは関係ない」
エマは、笑っていた母の顔を思い浮かべて血の気が引いた。
「時効」は借金の話だけじゃなかった
「時効って……借金が消えるとか、そういう話じゃないんですか。土地が取られる時効なんて聞いたことないです」
「時効には二種類ある」ヴィクトルはナプキンに線を引いた。「権利を育てる時効と、消す時効だ。前者が取得時効。他人の物でも、長年『自分の物』として使い続けた事実を尊重して、所有権を与えてしまう。後者が消滅時効。権利があっても、長年行使しなければ消える。借金の時効はこっちだ」
「どうして法律がそんなことを認めるんですか。本当の持ち主がかわいそうじゃないですか」
「長く続いた事実状態の上には、取引や生活が積み重なる。何十年も経ってからひっくり返すほうが、世の中は混乱するんだ。それにな、権利の上に眠る者は保護されない、というのが民法の態度だ。二十年間、自分の土地がどう使われているか見もしなかった者に、法律はそこまで優しくない」
エマはノートを開いた。知りたいことは二つ。なぜ権利が奪われるのか——これはいま聞いた。ではもうひとつ。どうすれば時効を止められるのか。
空回りする対抗策
「わかりました。じゃあ実家から、内容証明郵便を送ってもらいます。『そこはうちの土地です』って。それで時効は止まるんですよね? 管理会社の人が前に、滞納家賃は内容証明を送れば時効が止まるって言ってた気がします。送り続ければ、時効は永遠に止められるってことですよね」
「半分は正しくて、半分は危険な誤解だ。その話は後でまとめてやる。……いまお前は『家賃』と言ったな。なら先にこっちだ。お前のワンルームの入居者は、あと十年住み続けたら部屋を時効取得できると思うか?」
エマは凍りついた。平穏に、公然と、十年——条件が揃ってしまう気がする。
「……取られちゃうじゃないですか! 長く住んでくれる人は優良入居者だと思ってたのに!」
「落ち着け。取得時効の最初の条件を思い出せ。所有の意思だ。賃借人は『借りる』という契約で占有を始め、毎月家賃を払っている。自分の物として占有しているとは言えない。所有の意思の有無は、本人の内心ではなく占有を始めた原因の客観的な性質で決まる。だから賃借人は、三十年住み続けようが、借りている部屋を時効取得することはない」
「よかった……。あれ? でもそれなら、実家のお隣さんも『置かせてもらってるだけ』のつもりかもしれませんよね」
「いい着眼だ。それは後で実家のケースを解くときに使う」
時を止める方法と、巻き戻す方法
「まず数字を固めるぞ」ヴィクトルはナプキンに表を書いた。
「善意無過失——自分の土地だと信じ、信じたことに過失もない場合は、十年に短縮される。大事なのは、善意無過失かどうかを占有を開始した時点だけで判定することだ。開始時に善意無過失なら、三年後に他人の土地だと気づいても、十年のままでいい」
「途中で気づいたのに、ですか?」
「スタート時点だけを見る。それから、占有は引き継げる。親の占有を相続した子や、前の占有者から土地を買った者は、前の占有者の期間を合算して主張できる。ただし前の占有者が悪意なら、その悪意という瑕疵ごと引き継ぐ」
ヴィクトルは新しいナプキンを引き寄せた。「さっきの内容証明の話に戻る。時効の完成を邪魔する仕組みは二段構えだ。完成猶予と更新。目覚まし時計にたとえるなら、猶予はスヌーズ、更新はリセットだ」
「スヌーズと、リセット……」
「裁判上の請求——訴えを起こせば、裁判が終わるまで時効は完成しない。これが猶予。確定判決で権利が確定すれば、時効はゼロから進み直す。これが更新だ。債務者が『確かに借りています』と認める承認も更新になる。一番手軽で、一番強い」
「じゃあ、内容証明は?」
「内容証明で支払いを求める行為は、法律用語で催告という。催告の効果は、そこから六ヶ月間の完成猶予だけだ。更新はしない。しかも、猶予されている六ヶ月の間にもう一度催告しても、二度目には何の効力もない」
「永遠に止められるどころか、六ヶ月の時間稼ぎでしかなかったんですね……」
「もうひとつ大事な仕組みがある。時効は、期間が満了しただけでは効果が確定しない。時効の利益を受ける者が『時効を援用します』と主張して、初めて権利の取得や消滅が確定する。先週の無権代理を覚えているか。本人の追認ひとつで、宙ぶらりんだった契約の運命が決まった。時効も同じで、意思表示ひとつで効果が確定する。援用は追認の親戚だと思えばいい」
「援用するかは本人の自由なんですね。なら逆に、お金を貸すときに『時効は主張しません』と一筆書かせておけば安心じゃないですか?」
「それはできない。時効の利益は、あらかじめ放棄できない。強い立場の貸主がそういう特約を押し付けるのは目に見えているからだ。あとは効果の向きだ。時効の効力は起算日にさかのぼる。時効取得した者は、占有を始めた日から所有者だったことになる」
実家の庭を救えるか
「では腕試しだ」ヴィクトルは手帳に設例を書いた。
「Aは、Bが所有する甲土地を自分の土地だと過失なく信じて占有を開始した。三年後、甲土地が他人の土地だと気づいたが、そのまま占有を続けた。Aは占有開始から十年で甲土地を時効取得できるか?」
「途中で悪意になったから二十年……と言わせたいんですよね? ひっかかりません。善意無過失は占有開始の時点で判定する。だから十年で時効取得できる、です!」
「正解だ。では本題。実家の庭はどう守る」
エマはノートを見ながら考えた。「お隣さんは、境界を知っていて物置を置いたはずだから、悪意。だから二十年で……って、もう二十年以上経ってます! 手遅れじゃないですか!」
「慌てるな。まず、時効は援用されるまで効果が確定しない。隣人がまだ何も主張していないなら、勝負は終わっていない。それに、さっきお前が気づいただろう。隣人が『置かせてもらっている』つもりなら、所有の意思のない占有だから、そもそも取得時効は進んでいない」
「そうか……。じゃあ、母からお隣さんに話してもらって、『この土地はうちのもので、好意で使ってもらっている』ことを書面で確かめ合えばいい。それって、権利を認めてもらう——承認ですよね。時効がまだ完成していなければ、これでリセットできる」
「それが最善手だ。長年の付き合いがあるなら、いきなり内容証明よりまず話し合って一筆もらう。こじれそうなら、いつから・どういう経緯で置かれたのかも含めて専門家に相談することだ」
エマはその場で母にメッセージを送った。お隣の物置、今度帰ったとき一緒に話しに行こう——送信してから、ふうと息をついた。
「時効って、『何もしないこと』に値段がつく制度なんですね。二十年分の『まあいいか』が、土地の所有権と引き換えになるところでした」
「権利は、持っているだけでは守れない。行使して、手入れして、初めて維持できる。……さて、時効は時が流れるだけで起きる話だった。次は、約束の期限が来たのに相手が守らなかったら何ができるか。契約が破られた日の話だ」
まとめ
- 取得時効: 所有の意思をもって平穏・公然に他人の物を占有し続けると所有権を取得する。悪意・有過失なら20年、占有開始時に善意無過失なら10年(判定は占有開始時点のみ)
- 賃借人には所有の意思がないため、何年住み続けても借りている物を時効取得することはない
- 消滅時効: 債権は「知った時から5年」「行使できる時から10年」で消滅する。確定判決で確定した権利は10年
- 催告は6ヶ月の完成猶予のみで更新しない(再度の催告は効力なし)。裁判上の請求は確定で更新、承認は即更新
- 時効は援用して初めて効果が確定し、効力は起算日にさかのぼる。時効の利益をあらかじめ放棄することはできない
確認クイズ
1 / 5
Aは、B所有の甲土地を自分の土地だと過失なく信じて占有を開始し、3年後に他人の土地だと知ったが占有を続けた。Aの取得時効について正しいものはどれ?