見送った契約書、ふたたび
梅雨の雨がオルゴールの窓を叩く夜、エマはクリアファイルから一冊の契約書のコピーを取り出した。春に、署名する直前で見送った、あの中古アパートの売買契約書だ。
「ずっと、もう一度これと向き合いたかったんです。先週、約束が破られたときの解除を教わりましたよね。催告して解除する、解除に売主の帰責事由は要らない、って。あれを聞いて、今なら読めるかもしれないと思って」
「結論から言う。今日はその解除の、いわば特殊型からだ。誰も約束を破っていないのに、契約から降りられる仕掛け——手付だよ」
エマはあの日の恐怖を思い出す。売買代金2,400万円、手付金120万円。そして契約書の後ろのほうにあった一文。「買主がその債務の履行を怠ったときは、違約金として売買代金の20%を支払う」。
「あのとき怖かったことが3つあるんです。1つ目、手付を払った後に気が変わったらどうなるのか。2つ目、この違約金条項。手付を捨てた上に、480万円も取られるんじゃないかって。3つ目は……もし買った後に雨漏りみたいな欠陥が見つかったら、どうすればいいのか」
「いい整理だ。前の2つが手付の話、最後のが契約不適合責任の話。今日はその両方をやる」
「手付を払ったら、もう戻れない」の勘違い
「そもそも手付って、予約金みたいなものですよね? 払ったらもう後戻りできない、本気の証明というか」
「半分逆だ。当事者が何も決めずに手付を交付したら、それは解約手付と推定される。つまり手付は、後戻りできなくするお金じゃなく、後戻りするためのお金なんだ」
「えっ、じゃあ手付を払えば、やめられるんですか?」
「民法557条。買主は交付した手付を放棄して、売主は受け取った手付の倍額を現実に提供して、契約を解除できる。お前があのアパートで手付120万円を払っていたなら、120万円をあきらめれば理由なしで解除できたし、逆に売主がやめたくなったら、240万円をお前に実際に差し出す必要があった。口頭で『倍返しします』と言うだけでは足りない」
エマはノートに天秤の絵を描いた。買主は「捨てる」、売主は「倍返し」。
「ただし期限がある。相手方が契約の履行に着手した後は、手付解除はできない」
「履行に着手……じゃあ、たとえば私が中間金を払っちゃった後は、もう解除できないんですね」
「引っかかったな。基準は『相手方』の着手だ。お前が中間金を払った——つまり自分が履行に着手した——としても、売主のほうがまだ何もしていなければ、お前からの手付解除はまだできる。逆に、売主が引渡しや登記の準備を現に始めていたら、お前は解除できない。この制限は、履行に着手した相手方が不測の損害を受けないためのものだ。自分が着手しただけなら、解除しても相手方に迷惑はかからない」
「じゃあ、あの違約金条項は? 手付を捨てて解除しても、さらに20%……」
「場面が違う。手付解除は債務不履行じゃない。約束を破ったのではなく、用意された降り口から降りるだけだ。だから民法は、手付による解除の場合には損害賠償の問題は生じない、と明記している。違約金条項が働くのは、履行に着手した後で代金を払わないような、約束を破った場面だ。先週やった『賠償額の予定』を思い出せ。それに、違約金の定めがあるからといって、解約手付としての性質が当然に失われるわけでもない」
「そうだったんだ……。あの契約書は『手付でやめる道』と『約束を破ったときの精算ルール』が両方書いてあっただけで、罠じゃなかったんですね」
「そうだ。あの日のお前の本当の問題は、条項が読めないまま判を押そうとしていたことだよ」
買主に与えられた四つの武器
「3つ目の不安です。引渡しを受けた後に雨漏りが見つかったら?」
「引き渡された目的物が、種類・品質・数量に関して契約の内容に適合しないとき、売主は契約不適合責任を負う。2020年施行の改正民法で、昔の『瑕疵担保責任』から整理し直された制度だ。買主には4つの武器がある」
ヴィクトルは指を1本ずつ立てた。
「1つ目、追完請求。直せ、代わりの物をよこせ、足りない分を引き渡せ、と請求できる。ただし、買主に不相当な負担を課すのでなければ、売主は買主が求めたのとは別の方法で追完してもいい。2つ目、代金減額請求。これは原則として、相当の期間を定めて追完の催告をして、それでも追完されなかったときに使える武器だ。いきなり値引きしろ、とは言えない。追完が不可能なときや、売主がはっきり追完を拒んでいるときは、催告なしで減額を請求できる。3つ目、損害賠償。これには売主の帰責事由が必要だ。4つ目、解除。こっちは先週やったとおり帰責事由は不要で、催告しても直らなければ、不適合が軽微でない限り解除できる」
「解除だけは先週の知識で解けるんですね。……でも雨漏りって、住んでみないと分からないですよ。何年も経ってから見つかったら?」
「そこに期間のルールがある。種類・品質に関する不適合は、買主が不適合を知った時から1年以内に、その旨を売主に通知しないと、責任を追及できなくなる」
「1年以内に裁判を起こすんですか? それとも請求書を送るとか?」
「どちらも要らない。通知でいい。『雨漏りが見つかった』と売主に知らせておくだけで権利は保存される。試験ではここが定番のひっかけだ。もうひとつ。この1年の通知が要るのは種類・品質の不適合だけで、数量の不足や権利の不適合に、この期間制限はない。数量や登記の状態は外から確かめやすく、売主にとっても予測しやすいからだ」
「もうひとつ聞きたいです。中古物件だと『売主は契約不適合責任を負わない』という特約を見たことがあります。あれは許されるんですか?」
「特約自体は有効だ。この責任のルールは当事者の合意で変えられる。ただし限界がある。売主が知りながら告げなかった事実については、免責特約があっても責任を免れられない。雨漏りを知っていて黙って売ったなら、特約は盾にならない」
雨漏りの設例で腕試し
「じゃあ設例だ。本試験の問題だと思って解いてみろ」
ヴィクトルはナプキンに書いた。——AはBから中古住宅を買い、引渡しを受けた。契約書には「Bは契約不適合責任を負わない」との特約がある。半年後の台風で雨漏りが見つかった。実はBは雨漏りを知りながら、Aに告げていなかった。AはBに何を請求できるか。
「まず、免責特約は原則有効。でもBは雨漏りを知りながら告げていないから、この特約では責任を免れられない。だからAは、雨漏りを知った時から1年以内にBに通知したうえで、まず修補の追完請求。Bが相当の期間内に直さなければ代金減額請求。Bには帰責事由があるから損害賠償も請求できて、不適合が軽微でなければ解除もできる」
「完璧だ。ひとつ補足すると、Bは引渡しの時に不適合を知っていたのだから、そもそも1年以内の通知がなくても責任を追及できる。悪意の売主に、期間の利益を与える理由はないからな」
エマは契約書のコピーをファイルに戻した。春には呪文にしか見えなかった条項の一つひとつに、いまは名前と役割が見える。手付は降り口、違約金条項は約束を破ったときの精算ルール、そして欠陥には4つの武器。
「この契約書、もう怖くないです。次に契約書と向き合うときは、対等に話せる気がします」
「なら次は、金の『払い方』の話だ。弁済、相殺、債権譲渡。大家なら家賃のやり取りで必ずぶつかるぞ」
まとめ
- 手付は特に定めがなければ解約手付と推定される。買主は手付を放棄、売主は倍額を現実に提供して契約を解除できる
- 手付解除ができるのは「相手方が契約の履行に着手するまで」。自分が着手していても、相手方が未着手なら解除できる
- 手付による解除は債務不履行ではないので、損害賠償や違約金の問題は生じない
- 契約不適合責任の武器は**追完請求・代金減額請求(原則、追完の催告が先)・損害賠償(帰責事由が必要)・解除(帰責事由不要)**の4つ
- 種類・品質の不適合は「知った時から1年以内の通知」が必要(売主が悪意・重過失なら不要)。数量・権利にこの期間制限はない。免責特約は有効だが、知りながら告げなかった事実は免責されない
確認クイズ
1 / 5
買主Aが売主Bに解約手付を交付した場合に関する記述のうち、正しいものはどれ?