契約のちから

第1章

契約はいつ生まれるのか

エマが売買契約の重みを知る。意思表示・心裡留保・通謀虚偽表示と第三者

ペンが止まった日

金曜の夕方、エマは不動産会社の応接室で、売買契約書のページをめくっていた。二戸目として半年かけて探し当てた、中古アパート一棟。利回りも返済比率も何度も計算した。数字の上では、文句のない買い物のはずだった。

ところが、読み合わせの途中でエマのペンが止まった。「買主の都合により本契約を解除する場合、買主は売主に対し違約金を支払う」——事前の説明では「手付金を放棄すれば解除できます」と聞いていたのに、それとは別に、重たい違約金の条項が入っている。おかしい気がする。でも、何がどうおかしいのか、言葉にできない。

もうひとつ、引っかかっていることがあった。契約の前に自分で法務局から取り寄せた登記事項証明書。その乙区には、売主が組んだらしい銀行の抵当権が、消えないまま残っていた。担当者に尋ねると「決済までに抹消しますので、形式的なものです」と流れるような答えが返ってきた。本当にそうなのか、エマには確かめる術がない。

「すみません。今日は、持ち帰って検討させてください」

エマは契約書を閉じた。担当者の眉が、ぴくりと動いたのが見えた。

数字は読めても、契約が読めない

翌週の喫茶店オルゴール。奥の席で顛末を聞き終えたヴィクトルは、静かにカップを置いた。

「よく踏みとどまった。違和感の正体を説明できないうちは署名しない。正しい判断だ」

「でも、悔しかったんです」エマはかばんからノートを取り出した。一戸目を買うまでの計算がぎっしり書き込まれた、あのノートだ。「ヴィクトルさんに『買う時から売る時を考えろ』と教わって、出口まで考えて物件を選べるようになったのに——肝心の契約そのものが、私、まったく読めていませんでした。違約金の条項が普通なのか異常なのか。抵当権が残ったまま契約していいのか。ぜんぶ、担当者の言葉を信じるしかなかった」

「数字は武器だ。だが、契約と法律は防具だ。防具なしで買い進めることを、俺は勧めない」

ヴィクトルは財布から一枚のカードを取り出して、テーブルに置いた。顔写真入りの「宅地建物取引士証」。

「会社を辞める前に取った。大家業そのものに資格はいらないが、この勉強のおかげで、契約書と登記簿が『読める』ようになった」

エマはしばらくその証を見つめてから、顔を上げた。

「私、宅建を受けます。十月の試験、いまから間に合いますよね」

「なら週二回、ここで勉強会だ。最初は権利関係——民法から。今日は一番の土台、『契約はいつ生まれるのか』をやる」

「口約束は契約じゃない」の勘違い

「最初の問いだ。売買契約は、いつ成立する?」

「契約書に署名して、ハンコを押した瞬間です」エマは即答した。「だから口約束はまだ契約じゃないし、冗談で言ったことなんて、当然無効ですよね?」

「結論から言う。ぜんぶ違う」

ヴィクトルは、テーブルの上のコーヒーカップを指さした。

「さっき君はコーヒーを注文して、店主がうなずいた。あの瞬間、君と店主の間には売買契約が成立している。契約書もハンコもない。民法は、契約の申込みの意思表示に相手方が承諾したとき、契約は成立すると定めている。そして、書面を作ることは原則として必要ない(522条)。合意だけで、契約は生まれる」

「えっ。じゃあ、物件探しの電話で『その条件で買います』と言ってしまったら、どうなるんですか?」

「原則論で言えば、売買契約は成立しうる。数千万円の物件でもだ」

エマは青ざめた。内見や問い合わせの電話で、どれだけ気軽に言葉を投げてきただろう。

「じゃあ、なんでみんな、あんなに分厚い契約書を作るんですか」

「争いになったとき、合意の中身を証明するためだ。書面は契約の成立条件じゃなく、証拠であり安全装置だ。ただし例外もある。保証契約のように、法律が『書面でしなければ効力を生じない』と定めている契約もある。それはこの巻の終盤でやる」

意思表示の地図

「もうひとつ、土台の話をする。そもそも、契約を結ぶかどうか、誰と結ぶか、どんな内容にするか、どんな方式でするか——これらは原則、当事者の自由だ。契約自由の原則という(521条・522条)」

「自由……。あの違約金条項も、ですか?」

「そうだ。読んで、納得して署名すれば、それは君の合意だ。自由の裏側は自己責任。だからこそ、契約を読める者と読めない者の間に、決定的な差がつく」

ただし、とヴィクトルは続けた。自由には枠がある。法令による制限、そして公序良俗だ。公の秩序や善良の風俗に反する契約——たとえば犯罪の報酬を約束する契約は、双方がいくら納得して合意していても無効になる(90条)。

「ここからが本番だ。見た目は『申込みと承諾の合致』でも、その意思表示そのものに嘘や歪みが混じっていたらどうなるか。民法はこれを型ごとに整理している。この巻の前半は、この地図を埋めていく」

ヴィクトルがノートに書いた地図を、エマは自分のノートに書き写した。

「まず心裡留保(93条)。本心ではないと自分でわかっていながらする意思表示——ようするに冗談や口から出まかせだ。これは原則、有効」

「有効!? 冗談なのにですか?」

「意思表示は、受け取った側がそれを信じて動く。だから民法は、嘘をついた本人よりも、信じた相手を守る。ただし例外がある。相手方が『真意ではない』と知っていたか、知ることができたときは無効だ。冗談だと見抜けたはずの相手には、守るべき信頼がないからな」

「じゃあ、二つ目の通謀虚偽表示というのは?」

「今度は一人の嘘じゃなく、双方がグルになる型だ(94条)。たとえば借金の差押えから逃れるために、売る気もないのに知人と示し合わせて、土地を売ったことにして登記だけ移す。この仮装売買は、当事者の間では無効だ。どちらにも本気の意思表示がないからな。——だが、問題はここからだ。その嘘の登記を信じて、土地を買ってしまった第三者が現れたら?」

「それは……買った人が、かわいそうです」

「そのとおり。嘘の外観を信じて取引に入った善意の第三者には、無効を対抗できない(94条2項)。善意とは『事情を知らない』という意味だ。心裡留保の無効も同じで、善意の第三者には対抗できない(93条2項)」

差押えから逃げた土地のゆくえ

「仕上げに、本試験風の問題を出す」ヴィクトルはノートに設例を書いた。

「Aは、債権者からの差押えを免れるため、Bと示し合わせて、A所有の甲土地をBに売却したことにして、所有権の移転登記をした。その後Bは、甲土地を事情を知らないCに売却した。Aは、Cに対してAB間の売買の無効を主張できるか?」

エマは、さっき写した地図を指でなぞった。AとBは、売る気も買う気もないのに示し合わせている——通謀虚偽表示。だからAB間の売買は無効。でも、Cは事情を知らない、つまり善意の第三者だ。

「Aは、Cに無効を主張できません。94条2項です」

「正解だ。では二の矢。Cが登記簿をよく確かめず、少し不注意だったら? まだCへの移転登記が済んでいなかったら?」

「えっ……不注意があったなら、保護されない、ような……」

言いかけて、エマはノートの地図の隅に自分で書いた一行を見つけた。善意であればよい。無過失も登記も不要。

「——結論は変わりません。Cは、善意でありさえすれば保護されます」

「それでいい。嘘の外観を自分から作ったAと、事情を知らないC。どちらを守るべきかを考えれば、Cに多少の落ち度があっても結論は揺らがない」

エマはノートに、A・B・Cを三角形に配置した図を描き、矢印に「当事者間では無効」「善意なら勝ち」と書き込んだ。図にすると、頭の中が整理されていく。

「でも、ヴィクトルさん。今日のは『自分から嘘をついた側』の話ですよね。じゃあ、嘘をつかれた側——だまされて売ってしまった人は、どうなるんですか?」

「いい問いだ。それが次回——詐欺と強迫、そして勘違い、つまり錯誤の話だ。今日の94条2項の第三者と見比べると、守られ方に面白い差がある。それから」ヴィクトルは伝票を手に取りながら付け加えた。「あの契約書の違約金条項の正体は、手付を勉強する回で答え合わせをしよう」

まとめ

確認クイズ

1 / 5

売買契約の成立に関する記述のうち、民法の規定によれば正しいものはどれか。