原野を買わされた人たち
勉強会の二回目。エマがオルゴールの奥の席に着くと、ヴィクトルはコーヒーより先に、一枚の新聞記事のコピーをテーブルに置いた。
「今日はこれから始めよう」
見出しには「原野商法の被害、再び」とある。かつて「将来必ず値上がりする」と言われ、ほとんど価値のない原野や山林を買わされた人たちがいた。記事は、その被害者のもとへ今度は「あの土地を高く買い取ります。ただし測量費用を先に」と持ちかける二次被害が相次いでいる、という内容だった。
「ひどい……。完全にだましてるじゃないですか」
「そうだ。じゃあ聞くが、だまされて結んだ契約は、法律上どうなる?」
エマはノートを開いた。前回学んだばかりのことが書いてある。冗談で言った売り言葉——心裡留保は原則有効。売主と買主がグルになった仮装売買——通謀虚偽表示は無効。では、だまされた場合は。ノートのどこにも、まだ書いていない。
「無効」と「取消し」のあいだ
「だますなんて論外ですから……無効、ですか?」
「惜しいが違う。詐欺による意思表示は『取り消すことができる』。民法96条だ。無効じゃない。ここは言葉の使い分けが命になる」
「無効と取消しって、そんなに違うんですか? どっちも契約がなかったことになるんですよね」
「結果は似ているが、道筋がまるで違う。無効は、誰が何をしなくても最初から効力がない状態。虚偽表示がそうだったな。一方の取消しは、取り消すという意思表示をして初めて、さかのぼって効力を失う。取り消すまでは、いちおう有効な契約として存在している」
「取り消すまでは有効……。じゃあ、だまされた人が『取り消します』と言えば?」
「その瞬間、契約は初めから無効であったものとみなされる。遡及効という。逆に、だまされた本人が『この値段なら悪くない』と思えば、取り消さずに契約を維持してもいい。なかったことにするかどうかの選択権を、被害者の側に渡す仕組みだ」
エマはノートに「無効=最初から死んでいる/取消し=急所を突けば最初にさかのぼって死ぬ」と書き、我ながら物騒だなと思った。
「今の持ち主から取り戻せるはず」
「でも、それなら安心ですね」とエマは記事を指さした。「この被害者たちも、取り消せば土地を取り戻せるんでしょう? だまされて手放したんだから、その土地が今誰の手にあっても、『私の物です』って言えるはずですよね」
ヴィクトルはすぐには答えず、記事の続きを指で示した。そこには、だまし取られた土地の多くがすでに業者から事情を知らない別の買主へ転売されている、と書かれていた。
「エマ。その『今の持ち主が誰でも取り戻せるはず』という直感、先週も似た場面で崩れなかったか」
「あっ——虚偽表示の、善意の第三者」
「そうだ。グルの仮装売買でも、何も知らずに買った第三者には無効を対抗できない。94条2項でやった。詐欺にも同じ発想の条文がある。96条3項。詐欺による取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗できない」
「じゃあ、この人たちは、取り戻せない……?」
「転売先が善意無過失なら、土地そのものは取り戻せない。だました本人への損害賠償請求は残るが、資力のない相手から回収するのは難しい。だからこの手の事件は被害回復が進まないんだ」
エマの「取り戻せるはず」は、ものの数分で崩れた。
だまされた人と、何も知らない人
「納得いきません。だまされた被害者より、あとから買った人が勝つんですか」
「その『あとから買った人』も、何も知らずに普通の取引をしただけだという点を忘れるな。気の毒だが、だまされた人には『うかつにも信じてしまった』という落ち度が少しはある。落ち度ゼロの第三者と天秤にかけたとき、法は取引の安全を取った。それが96条3項だ」
「先週の94条2項では、第三者は善意でありさえすればよかったですよね。詐欺も同じじゃないんですか?」
「いい質問だ。そこが今日いちばんのひっかけどころになる。94条2項の第三者は善意だけでいい。96条3項の第三者は善意に加えて無過失まで必要。自分から嘘の外観を作った虚偽表示の本人は保護に値しないから、第三者はハードルが低くても勝てる。だまされた被害者は帰責性がずっと小さいから、第三者の側に高いハードルを課したんだ」
「強迫……脅されて契約させられた場合、ですか」
「そうだ。強迫による意思表示も取り消すことができる。そして詐欺との最大の違いがここだ。96条3項が守るのは『詐欺による取消し』の場面の第三者だけ。強迫による取消しは、善意無過失の第三者にも対抗できる。脅されて土地を手放した人は、その土地が誰の手に渡っていても取り戻せる」
「脅された人には、落ち度が全然ないから」
「そういうことだ。もうひとつ、契約の当事者ではない第三者が『だます側』に回るパターンもある。売主でも買主でもないCがエマをだまし、エマがBに土地を売ったとしよう。この場合は、相手方Bがだましの事実を知っていたか、知ることができたときに限って取り消せる。何も知らないBを巻き込まないためだ。ところが第三者が強迫した場合は、相手方が知っていようがいまいが、常に取り消せる」
「なお、96条3項で守られるのは取消しより前に現れた第三者だ。取り消した後に現れた第三者との関係は、判例上、登記をどちらが先に備えたかで決まる。取り消したら、すぐに登記を取り戻しておけ、という話につながる」
地番をひとつ間違えたら
「だまされても脅されてもいないけど、勘違いしていた場合はどうなるんですか。ほら、私、この前……」
エマが挙げたのは自分の失敗談だ。物件資料を眺めていて、隣り合う二つの土地の地番を読み違え、危うく別の土地の資料請求をしかけた。もし本当に、地番を書き間違えたまま契約書にハンコを押してしまったら?
「それが今日の三人目の主役、錯誤だ。95条。言い間違いや書き間違いのように、表示に対応する意思がない錯誤は、それが法律行為の目的や取引上の社会通念に照らして重要なものなら、取り消すことができる。地番を間違えて隣の土地の売買契約になっていた、というのは典型例だ」
「これも、取消しなんですね」
「そこが大事な改正点だ。かつて錯誤の効果は『無効』だった。2020年施行の改正民法で『取消し』に変わった。古い教材の『錯誤無効』の知識のまま試験に行くと、そこを突かれる」
「ただし錯誤には安全弁がある。間違えた本人に重大な過失があったときは、原則として取り消せない。地番をろくに確かめもせず契約したなら自業自得、というわけだ。例外は二つ。相手方が錯誤に気づいていたか、重大な過失で気づかなかったとき。そして、相手方も同じ勘違いをしていたときだ。それから、錯誤による取消しも、善意無過失の第三者には対抗できない。ここは詐欺と同じ扱いだな」
「詐欺、強迫、錯誤。取消しの三きょうだい……」ノートに三つを並べ、エマは第三者に勝てるかどうかの矢印を引いた。
「では仕上げだ。過去問風にいくぞ。——AはBにだまされて自分の土地をBに売った。Bはその土地を、事情を何も知らず、知らないことに過失もないCへ転売した。その後、Aは詐欺に気づいて契約を取り消した。AはCから土地を取り戻せるか?」
「Cは取消し前に現れた善意無過失の第三者だから、96条3項でCの勝ち。Aは取り戻せません」
「では、AがBに脅されて売っていたら?」
「強迫には第三者を守る規定がないから、Cが善意無過失でも取り戻せます」
「上出来だ。来週は、そもそもひとりで契約させると危ういから法律が守っている人たち——制限行為能力者をやる。『取り消せる契約』の仲間が、もうひとつ増えるぞ」
まとめ
- 詐欺・強迫による意思表示は取り消せる(96条)。取り消すと契約は初めにさかのぼって無効になる(遡及効)
- 詐欺による取消しは、取消し前の善意無過失の第三者に対抗できない(96条3項)。94条2項の第三者が「善意だけ」でよいのと対比して覚える
- 強迫による取消しは、善意無過失の第三者にも常に対抗できる。第三者が強迫した場合も、相手方の善意悪意を問わず取り消せる(第三者詐欺は相手方が悪意・有過失のときだけ)
- 錯誤(95条)は改正民法で「無効」から**「取消し」に変わった。動機の錯誤は基礎事情の表示があったときに限る。表意者に重大な過失**があれば原則取消し不可(例外: 相手方の悪意・重過失、共通錯誤)
- 錯誤の取消しも、善意無過失の第三者には対抗できない
- 取消し後に現れた第三者との関係は、詐欺でも強迫でも対抗関係になる。取消しにより所有権が戻った者と取消し後に現れた第三者は、登記の先後で優劣が決まる
確認クイズ
1 / 5
AはBにだまされて土地をBに売却し、BはCに転売した。その後、Aは詐欺を理由に売買契約を取り消した。正しいものはどれか。