契約のちから

第3章

ひとりでは契約できない人

未成年者・成年被後見人・被保佐人・被補助人。取消しと追認、詐術

契約の席に、売主がいない

その週の勉強会に、エマは不動産会社からもらったばかりの資料を持ち込んだ。駅から少し歩く、庭付きの中古戸建て。2戸目の候補としては悪くない立地と価格だった。ただ、担当者の説明には、聞き慣れない言葉が並んでいた。

「売主さんは80代のおばあさんで、後見開始の審判というのを受けているそうなんです。だから契約はご本人ではなく成年後見人が行います、ご自宅の売却なので家庭裁判所の許可も必要です、段取りは司法書士が進めています——って。ヴィクトルさん、ご本人は『売りたい』と言っているらしいんですよ? なのに本人と契約してはいけないなんてこと、あるんですか」

ヴィクトルは資料を眺めて、少し目を細めた。

「先週までに、取り消せる契約を三つやったな」

「はい。だまされた契約、脅された契約、間違えた契約。詐欺と強迫と錯誤。でも今回は、誰もだましていないし、脅してもいません」

「結論から言う。取り消せる契約には四つ目がある。判断能力が十分でない人が、ひとりでした契約だ。民法はそういう人たちを制限行為能力者と呼んで、契約そのものから守っている」

「同意があれば有効」の落とし穴

エマはノートに「取消しできる契約」と書き、詐欺・強迫・錯誤の下に四つ目の枠を描いた。

「でも、変な感じがします。だまされたわけでも、間違えたわけでもない。本人に『売りたい』という意思はあるんですよね。それでも取り消せるって、どういう理屈なんですか」

「順番に行こう。いちばん身近な制限行為能力者は未成年者だ。いまは18歳未満。中学生が親に黙って、三十万円のギターを分割払いで買う契約をしたとする。どうなると思う」

「親が取り消せる……ですよね。それは感覚でわかります。で、親が『買っていいよ』と同意していれば、有効」

「そのとおり。未成年者は、法定代理人の同意なしにした契約を取り消せる。逆に言えば、同意があれば有効だ」

「なら簡単じゃないですか」エマは資料のおばあさんの件を指した。「成年後見人が『売っていいですよ』と同意すれば、おばあさん本人が契約書にサインしても有効になる。未成年者と同じ理屈でしょう?」

ヴィクトルはコーヒーを一口飲んで、ゆっくり首を横に振った。

「いいや。成年被後見人は、後見人が同意していても取り消せる

「えっ。同意しているのに、ですか?」

判断能力のグラデーション

「同意という仕組みが成り立つのは、『同意された内容のとおりに行動できる』ことが前提だからだ」とヴィクトルはナプキンに線を引いた。「後見開始の審判を受けるのは、精神上の障害で判断能力を欠くのが通常の状態にある人だ。事前に後見人が同意しても、本人がその内容どおりに契約できる保証がない。だから法律は、成年後見人に同意権そのものを与えていない。守る方法はただひとつ、後見人が本人に代わって契約することだ。あの物件の段取りが全部、後見人と司法書士経由なのは、そういうわけだよ」

「じゃあ、おばあさんが自分でした契約は、全部取り消されてしまうんですか」

「例外がひとつだけある。日用品の購入その他日常生活に関する行為は取り消せない。スーパーで夕飯を買うたびに取消しの心配をしていたら、本人の生活が成り立たないからな。——制限行為能力者は四つの類型がある。判断能力のグラデーションで並べると、頭に入りやすい」

被保佐人は、成年被後見人より判断能力がある人だ。だから保護は一段ゆるい。原則はひとりで契約できて、お金を借りる・保証人になる・不動産を売り買いするといった、財産に大きく響く重要な行為だけ保佐人の同意がいる。同意なしでやれば取り消せる。被補助人はさらにゆるくて、そうした重要な行為のうち家庭裁判所の審判で定めた一部だけだ。ちなみに、補助開始の審判を本人以外が申し立てるときは、本人の同意が必要になる。保護がゆるい分、本人の意思を確かめるんだ」

「未成年者のほうは、同意がなければ何でも取消しなんですか? 高校生がコンビニでパンを買うのも?」

「いい質問だ。未成年者には例外が三つある。ただで何かをもらうような、単に権利を得るか義務を免れるだけの行為。小遣いのように処分を許された財産を使うこと。それと、法定代理人に営業を許可された未成年者は、その営業に関しては成年者と同じに扱われる」

相手方には三つの盾がある

エマはノートに四段の階段を描き、それぞれの取消しの範囲を書き込んだ。書き終えてから、ふと手が止まった。

「……でも、これ、買う側はたまらなくないですか。契約したあとで『実は被保佐人でした、取り消します』と言われるかもしれない。私があの戸建てを買うとして、いつ取り消されるかわからないまま何年も待つんですか?」

「大家目線の、いい着眼だ。民法は相手方にも盾を三つ用意している。一つ目が催告権。相手方は1か月以上の期間を定めて『追認するのかしないのか、はっきりしてくれ』と催告できる。追認というのは、取り消せる契約を『もう取り消しません』と確定させることだ。ポイントは、誰に催告したかで、返事がないときの結果が変わること」

「誰に聞くかで、ですか?」

「ひとりで追認できる人——法定代理人や保佐人・補助人、それに能力者になった後の本人——に催告して返事がなければ、追認したものとみなす。逆に、ひとりでは追認できない被保佐人・被補助人の本人に『保佐人や補助人の追認をもらってきてくれ』と催告して、期間内に通知がなければ、取り消したものとみなす。そして、未成年者や成年被後見人の本人に催告しても、そもそも何の効果も生じない

「二つ目の盾が詐術だ。制限行為能力者が『自分は行為能力者だ』と信じさせるためにだましの手を使ったら、もう取り消せない。同意を得ていないのに『保佐人の同意はもらっています』と偽った場合も同じだ。ただし、制限行為能力者であることをただ黙っていただけでは、原則として詐術にはならない。三つ目は時間切れ。取消権は、追認できる時から5年、行為の時から20年で消える。それからもうひとつ、追認は言葉だけとは限らない。取り消せる立場の人が、追認できる状態になってから代金を受け取ったり、相手に履行を請求したりすれば、追認したものとみなされる法定追認という」

「じゃあ、試してみますね」エマはノートの新しいページに設例を書いた。「『被保佐人が保佐人の同意を得ずに自分の土地を売った。買主は被保佐人本人に、1か月以上の期間を定めて、保佐人の追認を得るよう催告したが、期間内に通知はなかった。この契約はどうなるか』——被保佐人はひとりで追認できない人だから……取り消したものとみなす、ですね」

「正解だ。本試験の頻出形そのものだよ」

エマは戸建ての資料をあらためて眺めた。成年後見人が代理して、家庭裁判所の許可を取り、司法書士が段取りを固める。まわりくどく見えた手続きは、おばあさんを守ると同時に、あとから契約をひっくり返されない形で、買主のエマをも守る段取りだったのだ。

「この物件、安心して進めてもらいます。……それにしても、後見人が『代わりに契約する』って、考えてみれば不思議な仕組みですね。他人がした契約の効果が、本人に届くんだ」

「気づいたか。それが次回のテーマ、代理だ。ひとつ宿題を出そう。制限行為能力者は保護される——では、制限行為能力者が誰かの代理人になって契約したら、どうなると思う?」

まとめ

確認クイズ

1 / 5

成年被後見人が、成年後見人の同意を得て自己所有の土地を売却する契約を締結した。この契約に関する記述として正しいものはどれか。