契約のちから

第4章

「代わりに契約してきて」の落とし穴

代理の仕組み。顕名・自己契約・無権代理・表見代理

一枚の委任状

火曜日の夜、オルゴールの奥の席。エマはコーヒーが運ばれてくるのも待たずに切り出した。

「ヴィクトルさん、お願いがあるんです。来週から十日間、海外出張が入っちゃって。ちょうどその間に、新しく見つけた候補——駅徒歩八分の中古アパートの内見と価格交渉が重なりそうなんです。委任状を書きますから、代わりに見て、交渉してきてもらえませんか」

ヴィクトルは眉ひとつ動かさず聞いていたが、エマがノートを広げたところで一つだけ尋ねた。

「引き受けてもいい。だがその前に。俺がお前の代わりに署名した契約は、法律的には『誰と誰の』契約になる?」

「え? そりゃあ、ヴィクトルさんと売主さん……ですよね。実際にハンコを押すのはヴィクトルさんだし」

「じゃあ、もし俺がとんでもない条件で契約を結んできたら?」

「そのときは……私は頼んだだけですから、『そんな契約は知りません』って言えます、よね?」

言いながら、エマは自分の声が小さくなっていくのに気づいた。都合のいい結果だけ受け取って、都合が悪くなったら知らないと言う。そんな虫のいい話が、あるだろうか。

「知らない」とは言えない三角形

「先週の話を覚えてるか」とヴィクトルはコーヒーを一口飲んだ。「未成年者や成年被後見人がひとりで結んだ契約は取り消せる。制限行為能力者は保護される、という話だった。今日はその裏返しから始める。——制限行為能力者『が』、誰かの代理人になったらどうなると思う?」

「えっ。……契約が不利になるかもしれないから、やっぱり取り消せる、とか?」

「その直感が、今日ひっくり返る。まず仕組みからだ。委任状で頼む、を法律の言葉にすると代理という。代理は登場人物が三人いる三角形で考えるんだ」

ヴィクトルはエマのノートに大きな三角形を描いた。頂点に「本人=エマ」、左下に「代理人=ヴィクトル」、右下に「相手方=売主」。

本人・代理人・相手方の三面関係と、顕名・代理権・効果帰属の流れを示す図
代理の三面関係

「本人が代理人に代理権を与える。代理人は相手方に『本人のためにする』と示して——これを顕名という——契約を結ぶ。すると契約の効果は、ハンコを押した代理人ではなく、すべて本人に直接帰属する。お前が地球の裏側にいても、売主と契約した当事者はお前自身だ」

「効果が、全部私に……。じゃあさっきの『知らないと言えますよね』は」

「言えない。代理は、自分で契約したのと同じ結果を丸ごと引き受ける仕組みだ。だから『誰に・何を・どこまで』任せるかがすべてなんだ。委任状に『内見と価格交渉』と書けば代理権はそこまで。『契約締結まで』と書けば、俺の署名ひとつでお前の売買契約が成立する」

「で、さっきの問いだ。制限行為能力者も、代理人にはなれる。効果は全部本人に行くから、代理人自身は損をしない。保護する必要がないんだ。そして本人は、代理人が制限行為能力者だったことを理由に契約を取り消せない。判断力に不安のある人と知りながら選んだのは本人自身だからな」

「先週あんなに『保護される』って習ったのに、代理だと真逆……」

代理人が裏切るとき

「ただし、代理人なら何をしてもいいわけじゃない」とヴィクトルは三角形にバツ印を書き足した。「たとえば俺が、お前の代理人のまま、自分がそのアパートの売主として契約したら?」

「ヴィクトルさんが、私の代理人と売主を兼ねる? ……値段を決めるとき、どっちの味方をするんですか、それ」

「できない、が答えだ。代理人自身が相手方になる自己契約と、同じ契約で当事者双方の代理人になる双方代理は、代理権のない者がした行為——無権代理とみなされる。構造的に片方が必ず損をするからだ。ただし例外が二つ。本人があらかじめ許諾したときと、決まった約束を実行するだけの債務の履行のときは有効だ」

「なるほど……。じゃあ、代理権の範囲内なら安心なんですか?」

「範囲内でも罠はある。俺が売主からこっそり謝礼をもらって、わざと高値で話をまとめたとしよう。代理権の濫用という。形式上は権限内だから原則有効だが、相手方がその魂胆を知り、または知ることができたときは、これも無権代理とみなされる。それから、俺が忙しいからと勝手に別の人へ任せ直すこと——復代理も自由じゃない。任意代理人が復代理人を選べるのは、本人の許諾があるか、やむを得ない事由があるときだけだ。信頼で選ばれた以上、勝手にバトンは渡せない。ちなみに親権者のような法定代理人は、自己の責任でいつでも選任できる」

エマはノートに書き取った。三角形は、思っていたよりずっと繊細な図形だった。

勝手に結ばれた契約のゆくえ

「じゃあ仕上げに、過去問ふうに考えてみろ。俺が委任状の範囲——価格交渉まで——を超えて、勝手に売買契約まで結んでしまったとする。どうなる?」

エマは三角形とにらめっこした。代理権の範囲の、外。ということは。

「無権代理……ですか。効果は私には帰属しない?」

「そのとおり。原則としてお前に効果は及ばない。だが契約は宙ぶらりんのままだ。お前には二つの道がある。追認すれば、契約は契約の時にさかのぼって有効になる。追認を拒絶すれば、俺と売主の間の後始末になる」

「売主さんは、私の気が変わるのをずっと待つだけなんですか?」

「いや、相手方には三つの武器がある。一つ目は催告。相当の期間を定めて『追認するのか、しないのか』と本人に確答を求める。期間内に確答がなければ追認を拒絶したものとみなす。これは相手方が無権代理だと知っていた——悪意でも使える。二つ目は取消し。本人が追認しない間なら契約を取り消して白紙にできる。ただしこちらは契約時に無権代理と知らなかった善意の相手方限定。三つ目は、無権代理人への履行または損害賠償の請求。原則は相手方が善意無過失のときだが、無権代理人が自分に代理権がないと知っていた場合は、相手方に過失があっても請求できる」

「最後に、もう一段怖い話だ。無権代理なのに、本人が結果を引き受けさせられる場合がある。表見代理という。型は三つ。①実際には頼んでいないのに『この人に任せた』と代理権を与えたかのような表示を本人がした場合。②内見だけ頼んだのに契約まで結ばれた、という権限外の行為の場合。③委任を解いた後に、元代理人が委任状を持ったまま契約した、という代理権消滅後の場合。どれも、相手方が『代理権がある』と信じたことに正当な理由がある——善意無過失なら、本人に効果が帰属する」

「代理権がないのに……。あ、でも、まぎらわしい外観を作ったのは本人、ってことですか」

「そうだ。外観を信じた取引の安全と、外観を放置した本人の落ち度を天秤にかける。だから委任状は範囲を明確に書き、仕事が終わったら必ず回収する。——ここまで散々脅したが、俺は範囲の外には一歩も出ない。内見と交渉経過の報告までだ。契約書へのサインは、帰国したお前が自分の目で読んでからやれ」

エマは笑って、三角形の横に書き込んだ。「委任状:内見と価格交渉まで。契約はしない」。効果が全部自分に来るのなら、任せる範囲を線引きするのは自分の仕事だ。

「次回は毛色が変わるぞ。契約すらしていないのに、時間が経つだけで権利を手に入れたり、失ったりする話——時効だ」

まとめ

確認クイズ

1 / 5

Aは被保佐人Bに甲土地売却の代理権を与え、BはAの代理人としてCと売買契約を結んだ。この契約について正しいものはどれ?