大雨のあとの格安物件
週明けのオルゴールは、テレビの音がいつもより大きかった。週末に列島を襲った大雨のニュースが続いている。画面の中では、山あいの造成地が崩れ、盛土ごと家が押し流された映像が繰り返し流れていた。
「先週、区画整理の現場を見てきたばかりなのに……。人が土地を作り替えるって、こんなふうに牙をむくこともあるんですね」
エマがつぶやくと、ヴィクトルはテーブルに一枚の販売図面を置いた。駅からバスで十五分、高台の造成地に建つ中古戸建て。周辺相場より三割は安い。
「先週は、土地を編み直す話をした。今日はその作り替えが安全かどうか、という話だ。エマ、この物件、どう見る?」
「三割安……。眺めも良さそうだし、数字だけなら文句なしです。でも、図面の端に『擁壁あり』って書いてある。つまり、崖の上ですか」
「そうだ。安さには理由がある——この巻の最初から何度も言ってきたな。総仕上げに、その理由を法律の目で読めるようになってもらう」
「造成済み」はお墨付き?
エマはノートを開き、この物件の何が不安なのか、自分の言葉にしてみた。
「不安なのは、この高台が『人工的に盛られた土』かもしれないことです。でも……あれ? 待ってください。ここは造成されて分譲された土地ですよね。造成のときに行政の許可や検査を受けているはずだから、『造成済みの分譲地』って、いわば安全のお墨付きなんじゃないですか?」
「その『はず』が二重に危うい。順番に崩していこう。まず、造成の規制はどの法律の話だ?」
「えっと、確か『宅地造成等規制法』? 宅地を造成するときの法律ですよね。だったらやっぱり、この分譲地も許可を受けているはずで——」
名前にだまされた
「残念だが、その法律はもうない」
「えっ、なくなったんですか?」
「正確には全面改正された。昔の宅地造成等規制法、いわゆる宅造法は、名前のとおり『宅地にするための造成』しか対象にしていなかった。規制の区域も市街地とその周辺に限られていた。つまり、山の中の森林や農地に土を盛っても、宅地にする目的でなければ規制の網の外だったんだ。そこに大量の盛土が積み上げられ、大雨で崩れて下の人家を襲う——そういう災害が実際に起きた」
エマはさっきのテレビの映像を思い浮かべた。崩れたのは家が建つ土地そのものではなく、その上にあった盛土だった。
「それを受けて生まれ変わったのが、いまの宅地造成及び特定盛土等規制法、通称盛土規制法だ。最大の変更点は、宅地・農地・森林といった土地の用途を問わず、危険な盛土等を規制の対象にしたこと。『宅地の造成じゃないから関係ない』という発想自体が、もう通用しない」
「じゃあ、私の『分譲地だから許可と検査を受けているはず』という推理は……」
「二重に間違っている。第一に、古い造成地なら旧法時代、あるいは規制の外で、そもそも許可も検査も受けていないかもしれない。第二に、いまの法律の名前と仕組みを取り違えている。試験でも実務でも、ここは正確にいこう」
二つの規制区域と数字の網
ヴィクトルはナプキンに大きな円を二つ描いた。
「盛土規制法の骨格は単純だ。知事——指定都市や中核市の区域ではその長——が二種類の規制区域を指定して、その中の盛土等を許可や届出で管理する」
「二種類、ですか」
「一つ目が宅地造成等工事規制区域。市街地や、これから市街地になろうとする区域、集落とその周辺のうち、盛土等で災害が生ずるおそれが大きい区域だ。ここでは一定規模を超える盛土や切土の工事は、工事に着手する前に知事の許可がいる」
「一定規模って、どのくらいですか?」
「政令で決まっている。ノートに写しておけ」
「盛土は1メートル、切土は2メートル……。盛土のほうが厳しいんですね」
「盛った土は自然の地盤より崩れやすいからだ。崖ができなくても、高さ2メートル超の盛土や500平方メートル超の造成は網にかかる。それから、今日いちばんのひっかけどころがここだ」
「許可を受けたあとは、どうなるんですか?」
「一定規模の工事は途中で中間検査、完了したら完了検査を受けて、適合していれば検査済証が交付される。建築確認と同じ発想だな。無許可の工事や検査逃れには、工事の停止命令などの監督処分も改善命令もある。ついでに、規制区域が新しく指定されたとき、すでに工事中だった場合は、指定の日から21日以内に知事へ届出だ。許可を取り直すのではなく届出。ここも試験で狙われる」
「二つ目の円は?」
「特定盛土等規制区域。こちらは市街地や集落から離れていても、地形などの条件からみて、盛土等が崩れたときにふもとの人家に危害を及ぼしかねない区域だ。まさに、さっきのニュースのような場所だな。ここでは、さっきと同じ規模の工事が着手する日の30日前までの届出制。そして盛土で2メートル超の崖、切土で5メートル超の崖、盛土の高さ5メートル超、面積3,000平方メートル超といった大規模なものは許可制に格上げされる」
「もう一つ大事なのが土地の保全の責務だ。規制区域内の土地の所有者・管理者・占有者は、盛土等に伴う災害が生じないよう、土地を常時安全な状態に維持するよう努めなければならない。ポイントは、自分が造成したかどうかを問わないこと。区域指定前に行われた盛土でも同じだ。危険な状態を放置すれば、知事は勧告や、擁壁の設置・改造を命ずる改善命令を出せる。買った人が『前の所有者が盛った土だから知りません』とは言えないんだ」
エマはぞくりとした。あの高台の物件を買えば、その盛土の安全を維持する責務ごと引き受けることになるのだ。
崖の上の物件を、法律の目で見る
「じゃあ、この販売図面の物件。買う前に何を確認する?」
エマはノートの二つの円を見ながら整理した。
「まず、この土地が規制区域に入っているか。区域は知事が指定して公示されるから、県や市で確認できるはずです。次に、いつ、どの法律の下で造成されたか。あまり古いと、許可も検査も受けていないかもしれない。そして検査済証があるか。この擁壁が、許可を受けて検査に合格したものかどうか」
「合格だ。最初のワンルームを買ったとき、ハザードマップを開いて立地を確かめただろう。あれと同じで、造成地の安全は『分譲されている』という事実ではなく、区域・許可・検査という記録で確かめる。記録の出てこない崖上の格安物件なら——安さの理由はそこにある」
「三割引きの正体、見えました」
その週末、エマは予備校の模擬試験を受けた。オルゴールに持ち込んだ成績表の「法令上の制限」の欄には、8問中6問正解。都市計画の色分け地図から始まった一ヶ月の街歩きが、そのまま得点になっていた。
「風景と理由で覚えたところは、ほとんど落としませんでした」
「上出来だ。試験まであと2ヶ月。残るは税とその他——ラストスパートだ」
まとめ
- 旧宅造法は全面改正され、現行は盛土規制法(宅地造成及び特定盛土等規制法)。農地・森林も含め土地の用途を問わず危険な盛土等を規制する
- 規制区域は二種類: 宅地造成等工事規制区域(市街地・集落等。一定規模の工事は許可)と特定盛土等規制区域(離れた区域でも人家に危害のおそれ。30日前までの届出+大規模は許可)
- 許可が必要な規模(宅地造成等工事規制区域): 盛土で1m超の崖/切土で2m超の崖/合計2m超の崖/崖がなくても盛土2m超/面積500㎡超(土石の堆積も規制対象)
- 特定盛土等規制区域の大規模許可: 盛土で2m超の崖/切土で5m超の崖/盛土の高さ5m超/面積3,000㎡超は届出から許可に格上げ
- 許可の申請は工事主。工事中は中間検査、完了時は完了検査→検査済証。区域指定の際に工事中なら21日以内に届出
- 土地の所有者・管理者・占有者は、自分が造成したかを問わず土地を常時安全に維持する責務を負う(勧告・改善命令あり)
確認クイズ
1 / 5
宅地造成等工事規制区域内の工事の許可に関する記述のうち、誤っているものはどれか。