祖母の畑と一枚の登記
八月最初の土曜日。オルゴールの窓際の席で、エマはアイスコーヒーの結露をぬぐいながら、一枚の登記事項証明書をテーブルに置いた。
「先週、母から電話があったんです。田舎の祖母が、そろそろ畑を誰かに任せたいって。ゆくゆくは私が相続することになりそうで、登記を取り寄せてみたんですけど」
ヴィクトルが紙を手に取る。地目の欄には「畑」。ただし、隣接するもう一筆は「山林」となっている。祖母は二筆まとめて野菜を作っているのだ、とエマは言った。
「選択肢は三つ考えてます。近くの農家さんに売るか、貸すか、いっそ小さな家を建てて週末に通うか。どれがいいと思います?」
「どれを選ぶかの前に、どれができるのかを確かめる必要がある。農地というのは、宅地とはまるで別の世界のルールで動いているんだ」
エマは先週のことを思い出した。国土利用計画法の事後届出を学んだとき、ヴィクトルは最後に「農地は許可がないと契約そのものが無効になる世界だ」と予告していた。あのときの一言が、いきなり自分の家の話になって返ってきた。
自分の土地なのに、売るのに許可?
「でも大げさじゃないですか? 自分の土地なんだから、売るのも貸すのも自由でしょう。財産権っていうんですよね、確か」
「なら聞くが、日本の食料はどこから生まれる?」
「……農地、ですね」
「そうだ。農地は一度つぶして宅地にしたら、簡単には元に戻らない。だから農地法という法律が、農地が勝手に減ったり、耕す気のない人の手に渡ったりしないように見張っている。取引の世界に宅建業法という番人がいたように、農地には農地の番人がいるんだ」
エマはノートに「農地=食料生産の土台。勝手に減らせない」と書いた。それでも、まだ腑に落ちないことがある。そもそも、うちのあの土地は全部が「農地」なんだろうか。
地目が「山林」なら関係ない?
「あ、でもヴィクトルさん、うちは半分セーフですよ。こっちの筆は地目が『山林』ですから。山林なら農地法は関係ないですよね」
「残念だが、それが今日いちばんのひっかけだ」ヴィクトルは静かに首を振った。「農地法の『農地』かどうかは、登記の地目では決まらない。現況、つまり今その土地が実際にどう使われているかで決まる。現況主義という。地目が山林でも、祖母さんが畑として耕しているなら、それは農地法上の農地だ」
「えっ、じゃあ逆に、地目が『畑』でも家が建っていたら?」
「現況が宅地なら農地法の農地ではない。書類ではなく土地そのものを見る。それが農地法の姿勢だ。ついでに言うと、しばらく耕していない休耕地でも、手を入れればすぐ耕せる状態なら農地として扱われる」
エマは「山林」の文字を疑いの目で見直した。書類の上の顔と、土地の本当の顔は違うのだ。
三つの扉 — 3条・4条・5条
「結論から言う。農地に関わる行為の入口は三つだ」ヴィクトルはナプキンに大きく 3・4・5 と書いた。
「3条は、農地を農地のまま、持ち主や使う人が変わる場合。売買や賃貸借だな。許可を出すのは農業委員会。市町村に置かれた、農地のいちばん近くにいる番人だ」
「4条は、持ち主は変わらずに、農地を農地以外のものに変える場合。これを転用という。自分の畑をつぶして家や駐車場を作るケースだ。農地そのものが減る話だから、番人の格が上がって、許可権者は都道府県知事(指定市町村ではその長。まとめて『知事等』)になる。ただし、自分の農地に2アール未満の農作業小屋のような農業用施設を作る程度なら、例外として許可はいらない」
「5条は、転用の目的で権利も動く場合。宅地にするために農地を買う、借りる。3条と4条の合わせ技だから、許可権者は重いほうの知事等だ」
「都会の真ん中の畑も同じ扱いなんですか? 市街化区域って『市街化を進める区域』でしたよね。畑をつぶすなとは言わなそうですけど」
「いい着眼だ。市街化区域内の農地は、あらかじめ農業委員会に届け出れば、4条・5条の許可は不要になる。もともと市街化していく前提の場所だから、転用は止めない。ただし——ここが試験で何度も狙われる——この特例があるのは4条と5条だけで、3条にはない。農地を農地のまま買うなら、市街化区域の中でも農業委員会の許可がいる」
「転用のほうがゆるくて、農地のまま動かすほうは変わらない……なんだか逆な感じがします」
「市街化区域の特例は『農地が減ること』を許す特例だからな。農地のまま誰が耕すかという話は、場所がどこであれ農業委員会が見る。そう理解すれば忘れない」
そこへ、店に入ってきたハンナが「あ、農地法やってますね」と隣に座った。
「じゃあ実務から一つ。許可を受けずにした売買や賃貸借は、契約そのものが無効です。3条も5条も、許可がなければ効力が生じない。5条違反ならさらに工事停止命令や原状回復命令、罰則まであります。農地と気づかずに契約書を作りかけて青ざめる話、実際にあるんですよ」
「それと相続。エマさんの場合はまさにですけど、相続や遺産分割で農地を取得するときは、3条の許可は不要です。人の死はコントロールできませんから。ただし、取得したら遅滞なく農業委員会へ届出が必要。許可はいらない、でも届出はいる。ここも定番のひっかけです」
祖母の畑で答え合わせ
「じゃあ、うちの畑でやってみます」エマはノートに三行書いた。祖母の畑は市街化区域の外にある。
「一つ目、相続してから近くの農家さんに農地のまま売る。権利移動だから3条で、農業委員会の許可。二つ目、農地のまま貸す。賃借権の設定だから、これも3条で農業委員会」
「そうだ。三つ目は?」
「畑をつぶして自分の週末の家を建てる。持ち主は変わらず農地を宅地にするから、転用で4条。知事等の許可。市街化区域内なら届出で済むけど、うちは違うから許可が必要」
「完璧だ。では応用を二つ。隣町の人が『家を建てるために畑を売ってほしい』と言ってきたら?」
「転用目的の権利移動だから5条。知事等の許可を、当事者が受ける」
「その人に資金を貸す銀行が、畑に抵当権を設定するのは?」
エマは一瞬止まった。抵当権は権利関係で散々やった。設定されても、土地を使って収益するのは持ち主のままのはずだ。
「使う人も持ち主も変わらないから、権利移動には当たらない。3条の許可は不要、ですか?」
「正解だ。抵当権の設定に許可はいらない。最後にもう一つ。工事業者が祖母さんの畑を『半年だけ資材置き場に貸してほしい』と言ってきたら?」
「半年だけなら、終われば畑に戻せるし……いや、待ってください。資材置き場になっている間は畑じゃない。一時的でも転用は転用。しかも貸すから権利も動いて、5条ですね」
「そのとおり。期間の長短は関係ない」ヴィクトルは満足そうにコーヒーを飲み干した。「三つの扉さえ見分けられれば、農地法は得点源だ。夏の残りで、法令制限を君の畑にしてしまえ」
まとめ
- 農地かどうかは登記の地目ではなく現況で判断する(現況主義)。休耕地も農地に当たりうる
- 3条=権利移動→農業委員会の許可。4条=転用、5条=転用目的の権利移動→いずれも知事等の許可
- 市街化区域内の特例(あらかじめ農業委員会へ届出)は4条・5条のみ。3条にはない
- 相続・遺産分割による取得は3条の許可不要。ただし遅滞なく農業委員会へ届出が必要
- 無許可の3条・5条の契約は無効。違反転用には原状回復命令等。抵当権の設定は許可不要、一時的な資材置き場も転用に当たる
確認クイズ
1 / 5
市街化区域内の農地に関する記述のうち、農地法の規定によれば正しいものはどれ?