三千平方メートルの買い物
七月の午後、オルゴールの窓の外から蝉の声が届いていた。テーブルにはエマのノート。前回の街歩きで歩測した前面道路の幅と、建蔽率・容積率の計算メモがまだ残っている。
「今日は歩かない。頭の使い方が変わる回だ」とヴィクトルは言って、一枚の紙を差し出した。知人が経営する法人が、郊外の資材置き場を買うという話の概要だった。面積は三千平方メートル。
「三千平米……広いですね。でも、確認するのはこれまでどおり、用途地域と建蔽率・容積率、あとは接道ですよね」
「それは『建てる』ときの規制だ。エマ、ノートの目次を見てみろ。都市計画、開発許可、建築確認、道路と用途、建物の大きさ——ここまで全部、その土地に何をどう建てられるかの話だった。今日からもう一つ引き出しが増える。土地を取引すること自体にかかる規制だ」
「取引に、ですか? 契約のルールなら民法と宅建業法でさんざんやりましたけど」
「あれは当事者どうしのルールだ。今日のは違う。この資材置き場の売買は、契約を結んだあとに、買った側が役所に届出をしなければならないかもしれない。国土利用計画法という法律の話だ」
買っただけで、なぜ役所に
エマは首をかしげた。自分のお金で土地を買う。売主も納得している。それなのに、なぜ役所への届出が要るのだろう。
「開発許可みたいに、事前にお伺いを立てるってことですか?」
「順番が逆だ。この届出は事後届出という。契約を結んだあとに届け出る。目的は、投機的な土地取引で地価が釣り上がったり、街づくりに合わない使われ方をされたりするのを防ぐことだ。大きな土地の動きを行政が把握して、利用目的に問題があれば注文をつける、という仕組みになっている」
「あとから届け出て、まずかったら契約をやり直しさせられるんですか?」
「いい質問だが、その予想はたぶん外れる。まず、誰が・いつ・どこへ届け出るのかから整理しよう」
「忘れたら契約は無効ですよね」
ヴィクトルはコーヒーを一口飲んで、いつもの調子で切り出した。
「結論から言う。事後届出の基本形は——権利取得者、つまり買主が、契約を締結した日から起算して二週間以内に、土地のある市町村の長を経由して、都道府県知事に届け出る。これだけだ」
エマは急いで書き取りながら、引っかかりを口にした。
「売主は届け出なくていいんですか? 契約は二人でするのに」
「事後届出は買主だけでいい。地価や土地の使い方に影響するのは、これからその土地を使う側だからだ。売主と買主の双方が届け出るのは、あとで触れる事前届出のほう。試験はここを執拗に入れ替えてくる」
「なるほど……。でも、二週間なんてあっという間ですよ。もし買主が届出を忘れたら? 契約は無効になるんですよね。無許可だと建てられない開発許可と同じで、届出がないと——」
「そこだ。エマ、いまいい間違え方をした。届出を怠っても、契約は有効だ。罰則はある。六か月以下の拘禁刑か百万円以下の罰金だ。だが契約の効力には一切影響しない」
「えっ。じゃあ、罰さえ受ければ、届出しないで買った人の勝ちじゃないですか」
「刑事罰を『勝ち』と呼ぶならな。契約を無効にすると、代金を払った相手方や転売先まで巻き込んで大混乱になる。だから契約は生かしたまま、届出義務の違反だけを罰する。この『それでも契約は有効』という感覚が、事後届出制の背骨だ」
二千・五千・一万
「ただし、どんな土地でも届出が要るわけじゃない。面積の下限がある」ヴィクトルはナプキンに三つの数字を書いた。
「市街化区域なら二千平方メートル以上。市街化区域以外の都市計画区域——調整区域や非線引き区域なら五千平方メートル以上。都市計画区域の外なら一万平方メートル以上。これに満たない取引は、そもそも届出不要だ」
「街の中心に近いほど基準が小さい……。最初の色分け地図と同じ構造ですね。市街化区域は取引が地価に響きやすいから、小さい面積から見張る」
「いい読みだ。そしてこの面積は、買主を基準に判定する。ここが試験の急所だ。市街化区域で、売主が三千平米の土地を千五百平米ずつ二つに分け、同じ買主に二回に分けて売ったとする。一つひとつの契約は二千平米未満。届出は要るか?」
「分けてあるんだから……要らない、ですか?」
「要る。買主が一連の計画のもとで、合計二千平米以上の一団の土地を手に入れるなら、個々の契約が基準未満でも、それぞれの契約について届出が必要だ。買いの一団という考え方だ。逆に、売主が二千平米を千平米ずつ別々の買主に売った場合は、各買主の取得面積が基準未満だから届出不要。売主の側でまとまっていても関係ない。判定するのは、あくまで買う側だ」
「対象になる取引にも枠がある。対価があって、契約によって、所有権・地上権・賃借権を移転したり設定したりするもの。売買はもちろん、売買の予約や譲渡担保も含まれる。逆に、対価のない贈与、契約ではない相続・遺産分割・時効取得、権利の移転を伴わない抵当権の設定——これらは面積がどれだけ大きくても届出不要だ」
「届け出る中身は何なんですか?」
「主なものは土地の利用目的と対価の額だ。ただし、知事が審査するのは利用目的だけ。対価の額は、届出事項ではあるが審査の対象ではない。価格が高すぎるという理由で注文がつくことはない」
「注文というのは、具体的には?」
「利用目的が周辺の土地利用計画に照らして不適当なら、知事は届出があった日から原則三週間以内に、利用目的の変更を勧告できる。従わなくても罰則はないし、契約も有効なまま。ただし、従わなかった事実を公表されることがある」
「届出を忘れたら罰則あり・契約有効。勧告を無視したら罰則なし・契約有効・公表あり……。ややこしい!」
「だからさっき背骨だと言った。契約が無効になる場面は、事後届出の世界には存在しない」
資材置き場で判定してみる
「では最初の話に戻る。知人の法人が買う資材置き場は三千平米。届出は要るか?」
エマはナプキンの三つの数字を見比べた。
「場所によります。市街化区域なら二千平米以上なので届出が必要。市街化区域以外の都市計画区域なら五千平米未満なので不要。都市計画区域の外なら一万平米未満で、これも不要です」
「正解だ。実際の場所は市街化調整区域。つまり——」
「五千平米未満だから、届出不要!」
「そのとおり。ただし続きがある。あの法人は、隣接する二千五百平米の土地も続けて買い増す計画を立てている。合わせて五千五百平米。一連の計画による買いの一団だから、こうなると最初の三千平米の契約も含めて、それぞれの契約について届出が必要になる」
「買い増しの計画があるかどうかで、最初の契約の扱いまで変わるんですね」
「だから実務では、買主の取得計画の全体を最初に確認する。届出が必要なのに忘れれば、罰則を受けるのは買主だ。二週間は短い。決済だ登記だと走り回っているうちに、すぐ過ぎる」
エマはノートに図を描いた。真ん中に「契約締結」。そこから右へ「二週間以内・買主→市町村長経由→知事」の矢印。その先に「三週間以内・利用目的の勧告」。矢印のどこにも「契約無効」の文字は現れない。
「『建てる』規制は許可の世界、『取引する』規制は届出の世界。色がぜんぜん違いますね」
「その色の違いが見えたなら、この章は取れたも同然だ。ただし次回は、届出どころか許可がないと契約そのものが無効になる土地が出てくる。——農地だ」
まとめ
- 事後届出は権利取得者(買主)だけが、契約締結日から起算して2週間以内に、市町村長を経由して都道府県知事に行う
- 面積要件は市街化区域2,000㎡以上/市街化区域以外の都市計画区域5,000㎡以上/都市計画区域外10,000㎡以上
- 面積は買いの一団(買主基準)で判定。一連の計画で基準以上を取得するなら、契約を分割しても個々の契約ごとに届出が必要
- 対象は対価のある契約による所有権・地上権・賃借権の移転・設定(売買予約・譲渡担保も対象)。抵当権設定・相続・遺産分割・時効取得は届出不要
- 審査されるのは利用目的のみ(対価の額は届出事項だが審査対象外)。勧告は届出から原則3週間以内で、勧告に従わなくても契約は有効(公表あり)。届出を怠っても罰則はあるが契約は有効
確認クイズ
1 / 5
国土利用計画法の事後届出について正しいものはどれ?