その「時価」は誰が決めたのか
九月に入って最初の土曜日、オルゴールの奥の席。エマはノートを開いたまま、しばらく手が止まっていた。
前回、ヴィクトルの売却実例をなぞって譲渡所得を計算したページだ。譲渡価額、取得費、特別控除——数字はきれいに並んでいる。ただ、計算の途中で何度も顔を出したひとつの言葉に、赤い丸がついたまま残っていた。「時価」。
「ヴィクトルさん。譲渡所得を勉強してから、ずっと引っかかってることがあるんです。時価って、誰が決めた値段なんですか? 株なら取引所に値段が出ますけど、不動産は同じものが二つとないですよね。結局、売主の言い値でしょう?」
「言い値、か」ヴィクトルはコーヒーカップを置いた。「君のワンルームは千五百万円だった。あれは言い値だと思うか?」
「……正直、わかりません。相場はサイトで調べましたけど、最後は『そういう値段だから』って受け入れただけで。あの千五百万円が高かったのか安かったのか、根拠を説明しろと言われたら、できないです」
「いい疑問だ。試験では『税・その他』の定番論点だが、それ以前に、大家として一生使う話だ。結論から言う。**土地の値段には、国が毎年ものさしを当てている。**言い値だけの世界じゃない」
公定価格という早合点
「国が、ですか?」
「ニュースで聞いたことがあるだろう。毎年春に『地価公示』が発表されて、今年も銀座の土地が一番高かった、というやつだ」
「あ、あれですか。……えっ、ちょっと待ってください。じゃあ、あれって公定価格なんですか? 公示された値段と違う金額で売買したら、違法になるとか?」
「そう考えたなら、今日の一問目は不正解だ」とヴィクトルは笑った。「公示価格は、一般の土地取引に対しては指標にすぎない。公示区域内で取引する人は、それを指標として取引するよう努めなければならないとされているだけで、公示価格どおりに売買する義務はない。当事者が合意すれば、いくらで契約しても有効だ」
「なんだ……。ものさしって言っても、ずいぶんゆるいんですね」
「一般の取引に対してはな。だが、相手が変わると急に強くなる。そこがこの法律の面白いところで、試験の急所でもある」
一月一日、更地の値段
ヴィクトルはナプキンに図を描き始めた。
「しくみはこうだ。国土交通省に置かれた土地鑑定委員会が、公示区域の中から標準地を選ぶ。土地の利用状況や環境などが、その地域で通常と認められる一団の土地——特別に上等でも訳ありでもない、『ふつうの代表選手』だ」
「公示区域って、都市部だけですか?」
「都市計画区域が中心だが、その外でも土地取引が相当程度見込まれる区域なら対象になる。逆に、国土利用計画法の規制区域は除かれる。そして委員会は、標準地について二人以上の不動産鑑定士に鑑定評価をさせ、その結果を審査し、必要な調整をしたうえで、毎年一回、一月一日時点の正常な価格を判定して官報で公示する。公示事項を記載した書面は、関係する市町村の事務所で誰でも閲覧できる」
「二人以上っていうのは、答え合わせのためですか」
「そうだ。一人の目分量にしないための仕掛けだな。それから、ここで一番大事なのが正常な価格の意味だ。自由な取引が行われるとした場合に、通常成立すると認められる価格——ただし、その土地に建物が建っていたり借地権がついていたりしても、それらが存しないものとして判定する。つまり更地としての価格だ」
「えっ、家が建っていても、ないものとして?」
「そうだ。建物込みの値段にしたら、土地そのものの比較ができなくなる。地価公示はあくまで『土地のものさし』なんだ」
「で、さっきの『相手が変わると強くなる』の話だ。公示価格の効力は四つ覚えろ」
エマはノートに番号を振った。一、一般の土地取引には指標を与える(努める義務)。二、不動産鑑定士が公示区域内の土地の正常な価格を求めるときは、公示価格を規準としなければならない。三、公共事業の用地を取得する者が取得価格を定めるときも規準とする。四、土地収用の補償金の額は、公示価格を規準として算定した価格を考慮する。
「一般の人には『指標』、プロと公的機関には『規準』。義務の強さが違うんですね」
「ついでに、君がこの巻でずっと戦ってきた税金とつながる話をしよう」ヴィクトルはエマのノートを指した。「土地の公的な値段は、公示価格だけじゃない。都道府県が調べて公表する基準地の価格、相続税や贈与税の計算に使う路線価、そして固定資産税や不動産取得税の課税標準になっていた固定資産税評価額。同じ一つの土地に、複数の公的な値段がぶら下がっている」
エマは新しいページに土地の絵を描き、四本の線を伸ばした。公示価格は国、基準地の価格は都道府県、路線価は国税庁、固定資産税評価額は市町村。一つの物に、四つの公的な値段。
「バラバラの値段ってわけじゃ、ないんですよね?」
「ああ。路線価も固定資産税評価額も、公示価格の水準とのバランスを踏まえて決められていく。地価公示法の目的は『適正な地価の形成に寄与する』こと。値段の世界の、親玉のものさしだ」
値段を測る三つの物差し
「でも、その鑑定士さんたちは、どうやって更地の値段なんて出すんですか? そこが目分量なら、結局同じことじゃ……」
「いい食い下がりだ。鑑定士には不動産鑑定評価基準というルールブックがあって、手法が決まっている。大きく三つだ」
一つ目は原価法。その不動産をいま新しく作り直したらいくらかかるか(再調達原価)を求め、古くなった分を差し引く減価修正をして価格を出す。二つ目は取引事例比較法。似た物件の取引事例を多数集め、売り急ぎのような特殊な事情を直し(事情補正)、取引時点のずれを直して(時点修正)比較する。投機的な取引の事例を使ってはいけない。三つ目は収益還元法。その不動産が将来生み出す純収益を現在価値に割り戻して合計する。一年分の純収益を利回りで割り戻す直接還元法と、年ごとの収支を積み上げていくDCF法がある。
「収益還元法って……あれ? それ、私が物件を選ぶときにやっていたことと同じじゃないですか。家賃から経費を引いた手残りを、利回りで見る——」
「気づいたか」ヴィクトルは少し嬉しそうに頷いた。「俺は勝手にこう呼んでいる。収益還元法は大家の値段。その物件が稼ぐ力から逆算する。取引事例比較法は市場の値段。周りがいくらで買っているかを見る。原価法は作り手の値段。三つの目で測って突き合わせる。だから鑑定評価では、案件に応じて複数の手法を併用するのが原則とされている」
「じゃあ、賃貸に出していない土地——自分で住む家の土地には、収益還元法は使えないんですね。家賃が入らないんだから」
「引っかかったな。それも試験の定番だ。**自用の不動産でも、賃貸を想定すれば収益還元法は適用できる。**もし貸したらいくら取れるか、と考えればいい。市場性のない文化財のような不動産を除けば、基本的にすべての不動産に適用すべきとされている」
「なるほど……。自宅にも『大家の値段』がつけられるんだ」
「なお、鑑定評価で求める価格にも種類がある。ふつうは市場価値を示す正常価格だが、隣接地の買い足しのように市場が相対的に限定される場合の限定価格、早期売却の前提など法令等による社会的要請を背景とする特定価格、文化財のように市場性のない不動産の特殊価格。名前と場面をつなげておけ」
あの日の答え合わせ
「仕上げに、過去問ふうに一問。『標準地の正常な価格とは、当該土地に建物がある場合には、建物が存するものとして通常成立すると認められる価格をいう』——正しいか?」
「誤り、です。建物や借地権があっても、ないものとしての価格。更地としての価格です」
「もう一問。『土地鑑定委員会は、標準地について一人の不動産鑑定士の鑑定評価を求め、その結果を審査して正常な価格を判定する』」
「二人以上、です。ふふ、もう引っかかりませんよ」
「上出来だ」
エマはノートを一枚めくり、ふと手を止めた。思い出したのは、まだ宅建のたの字もなかった頃、この席で利回りを教わった日のことだ。あのときヴィクトルは言った。利回りは物件の値札じゃなく、「自分が立てた見通しの要約」だと。あの日の疑問——不動産の値段はどう決まるのか——に、今日ようやく名前がついた。自分があの頃ひたすらやっていた計算は、収益還元法の入り口だったのだ。
「値段は言い値じゃなくて、ものさしの当て方だったんですね。……これで税金のマップも、値段のものさしも、ひととおり歩き終えました。残りは——」
「問四十六から五十。いわゆる免除科目だな」ヴィクトルはカップを干した。「あの五問は、俺よりハンナの領分だ。実務の知識でまるごと取りにいける」
試験まで、あとひと月あまり。エマはノートの表紙を撫でて、静かに閉じた。
まとめ
- 土地鑑定委員会が、公示区域内の標準地について2人以上の不動産鑑定士の鑑定評価を求め、毎年1回・1月1日時点の正常な価格を判定して公示する(書面は市町村の事務所で閲覧できる)
- 正常な価格は、自由な取引で通常成立すると認められる価格。建物・借地権等があってもないものとした更地としての価格
- 公示価格は一般の土地取引には指標(努力義務)。規準として義務づけられるのは、不動産鑑定士の鑑定評価・公共事業用地の取得価格・収用補償金の算定
- 鑑定評価の3手法は原価法(再調達原価−減価修正)・取引事例比較法(事情補正・時点修正、投機的事例は排除)・収益還元法(直接還元法とDCF法)。複数併用が原則で、収益還元法は自用の不動産にも賃貸を想定して適用できる
- 価格の種類は正常価格・限定価格・特定価格・特殊価格の4つ
確認クイズ
1 / 5
地価公示の手続に関する記述として、正しいものはどれか。