契約書の隅の、小さな切手
その週末、エマはオルゴールの奥の席に、分厚いクリアファイルを持ち込んだ。中身は一戸目のワンルームを買ったときの書類一式。売買契約書、登記識別情報通知、司法書士から届いた登記費用の請求明細。先週、固定資産税の納税通知書をこのテーブルに並べて解読したばかりだ。
「保有の税の次は、取引の紙と登記に貼り付く税だ」とヴィクトルは言った。「ちょうどいい。その契約書を開いてみろ」
エマは売買契約書の表紙をめくった。一ページ目の隅に、切手のような細長い紙が貼られ、その上に売主と自分の判子が斜めに押してある。
「これ、契約のとき『印紙代』って言われて払ったやつです。切手にしては高かった記憶が……。そもそもこれ、何なんですか? 消費税は買い物にかかる。固定資産税は持っている不動産にかかる。でもこれは——紙に、税金?」
「そのとおり、紙にかかる税金だ。印紙税という、れっきとした国税だよ」
「貼り忘れだ!」という濡れ衣
エマはふと思い立って、ファイルの奥から別の契約書を引っ張り出した。いまの入居者と結んでいる、部屋の賃貸借契約書だ。ページをめくる手が止まる。
「……ない。印紙、どこにも貼ってないです。これ、管理会社の貼り忘れじゃないですか? 貼ってないと三倍の罰金を取られるって、どこかで読みましたよ。どうしよう」
ヴィクトルはコーヒーを一口飲み、慌てるエマをしばらく眺めてから言った。
「結論から言う。その契約書に印紙は要らない。建物の賃貸借契約書は、印紙税の課税文書ではないからだ」
「え? 売買契約書には貼るのに? 同じ不動産の契約なのに?」
「印紙税は、すべての契約書にかかる税金じゃない。法律が『この文書に課税する』と決めた課税文書のリストに載っているものだけに課される。不動産の売買契約書はリストに載っている。建物の賃貸借契約書は載っていない。それだけの話だ」
「じゃあ、賃貸の契約書はぜんぶ印紙なし、と……」
「そう早合点するな。土地の賃貸借契約書は課税文書だ。建物を借りる契約は不課税、土地を借りる契約は課税。ここは試験でも実務でも混同しやすい」
エマはノートに「建物賃貸借=貼らない/土地賃貸借=貼る」と書き、大きく丸で囲んだ。
文書に課される税
「整理しよう」とヴィクトルはナプキンを引き寄せた。「印紙税は、取引そのものではなく、課税文書を作成したことに課される国税だ。だから同じ一件の売買でも、契約書を二通作れば二通とも課税される」
「うちも売主さん保存用と私の保存用で二通作りました。それぞれに一枚ずつ貼ってあるんですね」
「そうだ。次に、何が課税文書かを押さえる。不動産の売買契約書、交換契約書、贈与契約書、土地賃貸借契約書、金銭消費貸借契約書——つまりローンの契約書もだ。それから、代金を受け取ったときの受取書。逆に、建物賃貸借契約書、媒介契約書、委任状は課税文書ではない」
「贈与の契約書にも印紙が要るんですか? タダであげるのに?」
「要る。ただし贈与には対価がないから、記載金額のない契約書として扱われて、印紙税は定額の200円だ。印紙税の額は、原則として文書に書かれた記載金額の大きさで決まる。ここにいくつかルールがある。一通の契約書に売買金額が複数書いてあれば合計額。交換契約書に双方の価額が書いてあれば高いほうの金額。契約金額を増額する変更契約書は増えた分だけが記載金額になり、減額の変更なら記載金額のない文書として扱われる」
「土地の賃貸借の記載金額は? 地代ですか?」
「違う。後日返還されない権利金などの額が記載金額だ。毎月の地代や、返還される敷金は記載金額に入らない。ここも定番のひっかけだよ」
「それで、さっきの三倍の罰金の話は……」
「過怠税だな。納付の方法とセットで覚える。印紙税は、印紙を文書に貼って消印をすることで納付したことになる。おまえの契約書の判子が斜めに押してあったのは、印紙の再利用を防ぐための消印だ。印紙を貼らずに作成すれば、本来の税額にその二倍を足した合計三倍の過怠税。ただし調査を受ける前に自分から申し出れば1.1倍に軽減される。印紙は貼ったが消印を忘れただけなら、その印紙の額面と同額の過怠税だ」
「あの、電子契約なら印紙がいらないって聞いたんですけど、本当ですか?」
「本当だ。印紙税はあくまで紙の文書を作成したことに課される税だから、電子データで交わした契約には課されない、というのが現在の取扱いだ。ただし紙で作った以上、貼らないという選択肢はない。それはただの脱税だ」
「国が相手の契約はどうなるんですか? 国も印紙を貼るんですか?」
「いい質問だ。国や地方公共団体が作成した文書は非課税。では、国と民間が契約書を共同で作って一通ずつ保存したらどうなるか。国が保存する分は民間が作成したものとみなして課税、民間が保存する分は国が作成したものとみなして非課税になる。手元に残るほうの感覚と逆だから、試験ではよく狙われる」
登記に貼り付くもう一つの国税
エマは司法書士の請求明細を広げた。報酬とは別の欄に「登録免許税」という項目が並んでいる。
「次はこれです。登記のときの税金、ということは分かるんですけど」
「登録免許税。登記を受けるときに国に納める国税だ。納税義務者は登記を受ける者。売買の移転登記なら、買主と売主の双方が連帯して納付する義務を負う。実務では買主負担の特約が普通だが、法律上は連帯だ」
「金額はどうやって決まるんですか?」
「課税標準×税率。そして課税標準は、実際の売買価格ではなく——」
「あっ、また出た。固定資産税評価額ですね? 不動産取得税のときと同じ」
「そのとおり、固定資産課税台帳の価格だ。ただし一つだけ例外がある。抵当権の設定登記だけは、債権金額が課税標準になる。銀行が貸した金額そのものだ。担保に入れた不動産の評価額は関係ない」
「明細を見ると……ほんとだ。建物と土地の移転登記は評価額なのに、抵当権設定だけ借入額で計算されてます」
「それから、住宅用家屋の軽減税率という特例がある。所有権の保存登記、売買による移転登記、住宅ローンの抵当権設定登記の税率が大きく下がる。要件は、個人が自分の住まいとして使う家屋で、床面積50㎡以上、新築または取得後1年以内に登記を受けること。注意点は二つ。土地には適用がないこと。そして自分が住むことが要件だから、人に貸す家には使えないことだ」
「納め方は? これも印紙ですか?」
「登録免許税は原則として現金で納付する。ただし税額が3万円以下の場合などは印紙で納めることもできる。印紙税は印紙が原則、登録免許税は現金が原則。名前が似ているぶん、逆にして出題されるよ」
明細書の検算
「では試験問題だ」とヴィクトルはナプキンに問題を書いた。
「『個人が、住宅用家屋の軽減税率の適用要件を満たす家屋をその敷地とともに買い受け、取得後1年以内に所有権移転登記を受ける場合、敷地である土地の移転登記についても軽減税率の適用を受けることができる。○か×か』」
エマは今日のノートを見返した。家屋のほうは要件を満たしている。でも、聞かれているのは土地のほうだ。
「×です。軽減の対象は家屋だけで、土地の移転登記には適用されません」
「正解。じゃあ、おまえがワンルームを買ったとき、この軽減は使えたか?」
エマは一瞬「使えたはず」と言いかけて、口をつぐんだ。あの部屋の床面積は、確か50㎡もない。それに何より、あの部屋には自分が住んでいない。入居者に貸している。
「……使えません。貸家だから『自己の居住用』じゃないし、広さも足りない。だからこの明細、軽減なしの税率で計算されているんですね」
「そういうことだ。数字の意味が分かれば、明細はもう怖くない。印紙税も登録免許税も、一件あたりの額は固定資産税ほど目立たない。だが『誰に・何に・どう課されるか』という構造は、試験に毎年のように顔を出す。税率の丸暗記より、今日ノートに描いたその地図を持って行け」
エマのノートには、契約書の絵に印紙と消印、その横に「建物賃貸借=貼らない」、登記簿の絵に「課税標準は評価額(抵当権だけ債権金額)」「軽減は家屋だけ・自分が住む家だけ」と書き込まれていた。最初の章で描いた税金マップの「取得」の欄が、これでほぼ埋まった。
まとめ
- 印紙税は課税文書の作成に課される国税。売買・交換・贈与・土地賃貸借・金銭消費貸借の各契約書と受取書は課税、建物賃貸借契約書・媒介契約書・委任状は不課税
- 記載金額は、複数の売買金額=合計/交換=高いほう/増額変更=増加額のみ。土地賃貸借の記載金額は権利金等(地代・敷金は含まない)
- 納付は印紙の貼付+消印。貼付なし=3倍の過怠税(調査前の自主申告なら1.1倍)、消印なし=額面と同額
- 国等が作成した文書は非課税。国等との共同作成文書は、民間保存分=非課税、国等保存分=課税
- 登録免許税の課税標準は固定資産税評価額(抵当権設定のみ債権金額)。住宅用家屋の軽減は個人・自己居住用・床面積50㎡以上・1年以内の登記が要件で、土地と貸家には適用なし。納付は原則現金(3万円以下は印紙も可)
確認クイズ
1 / 5
印紙税に関する次の記述のうち、誤っているものはどれか。