契約を守る砦

第4章

頭を冷やす八日間

「契約したら最後」と思い込んでいたエマが、宅建業者が自ら売主のときだけ働く無条件解除——クーリングオフの仕組みと8日間の数え方を学ぶ

同僚の申込書

日曜の午後、オルゴールの奥の席。この一週間、エマはハンナの会社の商談室で、自分の重要事項説明書と売買契約書を並べ、「どっちに何が書いてあるか」の間違い探しを続けてきた。今日はその復習のつもりだったが、ノートを開く前に、どうしても聞きたい話があった。

「ヴィクトルさん、会社の同僚のことなんですけど」

同僚は数ヶ月前から、投資用マンションの勧誘電話に悩まされていた。断り切れずに一度だけ会う約束をしてしまい、先週の土曜、ホテルのラウンジで営業マンと会った。気づいたときには「買受けの申込書」に署名し、申込証拠金として十万円を渡していた。翌朝、青い顔で撤回の電話をかけると、こう返されたという。「一度いただいたお申込みは撤回できません。どうしてもとおっしゃるなら、違約金のご相談になります」

「契約や約束は守らなければいけない、って民法の最初に学びましたよね。手付放棄みたいな出口を自分で用意していない限り、もう逃げられないんじゃ……」

ヴィクトルはカップを置いた。「結論から言う。その同僚は、一円も払わずに、無条件でやめられる可能性が高い」

「契約したら最後」の大きな例外

「無条件で!?」エマの声が裏返った。約束は守る。契約は当事者を縛る。それが民法で最初に叩き込まれた大原則だ。手付にも違約金にも触れずにタダでやめられる道があるなら、あの原則は何だったのか。

「民法の原則は生きている。ただ、宅建業法には、その原則をあえて曲げる特別ルールが8つまとまって置かれている。8種制限と呼ばれるものだ。適用されるのは、宅建業者が自ら売主になって、宅建業者でない買主に宅地や建物を売るときだけ。プロ対プロ、つまり業者どうしの取引には適用されない」

「重説や37条書面は、どんな取引にも通る正規ルートの話でしたよね」

「そうだ。ここから先は、その正規ルートの上にかぶせる、買主を守るための砦だ。プロと素人では、情報も経験も交渉力も違いすぎる。その落差を埋めるために、民法なら有効なはずの合意を、法律が強制的に無効にする。今日はその一枚目、クーリングオフをやる」

八日目はいつ切れる?

「クーリングオフって、通販や訪問販売の話だと思ってました。不動産でもできるんですね」

「できる場面が絞られているだけだ。試そう。いま、この喫茶店で、俺が業者の営業マンに申込書を書かされたとする。撤回できると思うか?」

「うーん……オルゴールは静かだし、コーヒーを飲みながら落ち着いて考えられますよね。冷静に判断できる場所だから、できないんじゃないですか?」

「逆だ。線引きは店の雰囲気じゃなく、場所の種類で決まる。喫茶店は、どんなに落ち着いた店でも事務所等ではない。だからここでした申込みは撤回できる」

「じゃあ、同僚のホテルのラウンジも……」

「事務所等ではない。もう一問いくぞ。同僚が申込書を書いたのは先週の土曜。その場で、クーリングオフができることとその方法を書いた書面を渡されている。いつまでに撤回すればいい?」

エマは巻2で学んだ期間計算を思い出した。「期間は初日を数えないんですよね。翌日の日曜から数えて8日だから……今度の日曜まで、です」

「惜しいが、1日ずれた。実務でその数え間違いをしたら、取り返しがつかない」

頭を冷やすための盾

「条文は『告げられた日から起算して8日を経過したとき』とわざわざ書いている。起算して、だから初日を含める。告げられた土曜そのものが1日目。8日目は今度の土曜で、撤回できるのはそこまでだ。民法の初日不算入の原則を、明文で上書きしているんだ」

「初日を入れて8日……つまり、告げられた日プラス7日なんですね」

「そう覚えれば間違えない。全体を整理するぞ」ヴィクトルはナプキンを引き寄せた。

第一に、どこで申し込んだか。クーリングオフができるのは、事務所等以外の場所で買受けの申込みをした場合だ。事務所等に入るのは、①業者の事務所、②専任の宅建士を置く義務がある案内所など(ただし土地に定着する建物内のものに限る。分譲地のテント張り案内所は外れる)、③買主のほうから「自宅や勤務先で説明を受けたい」と申し出た場合の、その自宅・勤務先。この3つに当たらない場所——喫茶店、ホテルのロビー、業者側から押しかけてきた自宅——での申込みなら、撤回の道が開く。

「自宅なのに、できる場合とできない場合があるんですか?」

「自分から呼んだかどうかだ。自分の意思で場所を指定したなら、冷静に判断できる状態だったと扱われる。電話勧誘に押し切られて『では伺います』と来られたのなら、買主が申し出たとは言えない」

「申込みはラウンジで、契約は後日、事務所で……という場合は?」

申込みの場所で判定する。頭が熱いまま申し込んだかどうかが問題だからだ。逆に、事務所で申し込んで契約だけ外でしたなら、できない」

申込みの場所が事務所等か、書面告知から8日以内か、引渡しと代金全部支払いが済んでいないかでクーリングオフの可否を判定するフローチャート
クーリングオフ可否の判定フロー

第二に、いつまでか。できなくなる場合は2つしかない。1つ目が、さっきの「書面で告げられた日から起算して8日」の経過。このカウントは、クーリングオフができる旨と方法を書面で告げられて初めて動き出す。告げられなければ、申込みから何週間たっても撤回できる。2つ目が、物件の引渡しを受け、かつ、代金の全部を支払ったとき。両方そろって初めて消える。引渡しだけ、全額支払いだけでは消えない。

第三に、やり方と効果。撤回や解除は書面で行い、その書面を発した時に効力が生じる。発信主義だ。8日目に投函すれば、業者に届くのが9日目でも間に合う。効果は無条件解除。業者は損害賠償も違約金も一切請求できず、受け取っていた手付金などの金銭は速やかに全額返さなければならない。そして、これより買主に不利な特約はすべて無効。「クーリングオフは3日以内」と契約書にあっても無効で、法律どおり8日に戻る。逆に10日へ延ばす特約は、買主に有利だから有効だ。

内容証明を書く夜

「仕上げに、過去問ふうに一問」とヴィクトルが手帳を開いた。

——宅建業者Aは自ら売主として宅地の分譲を行い、現地に仮設テントの案内所を設置した。宅建業者でないBは、そのテント内で買受けの申込みをし、3日後にAの事務所で売買契約を締結、その席でクーリングオフについて書面で告げられた。Bが告げられた日から起算して7日目に解除の書面を発送したところ、Aに到達したのは9日目だった。この解除は有効か。なお、引渡しも代金の支払いもまだである。

エマは指を折りながら考えた。「まず場所。テントの案内所は、案内所ではあるけど土地に定着していないから、事務所等じゃない。契約は事務所だけど、申込みと契約の場所が違うときは申込みの場所で判定だから……この取引はクーリングオフできる型です。次に期間。8日以内かどうかは発信で決まるから、7日目の発送でセーフ。到達が9日目でも、書面を発した時に効力——有効です!」

「満点だ。同僚の件も、もう解けるだろう」

その夜、エマは同僚にノートを見せた。書面で告げられたのは先週の土曜。1日目がその土曜なら、8日目の土曜はまだ来ていない。二人で解除通知の文面を書き、翌朝、記録が残る郵便で発送した。数日後、十万円は全額戻ってきた。「違約金のご相談」は、法律の前ではただの脅し文句だった。

ハンナにメッセージで報告すると、すぐに返事が来た。「上出来。でも、それは8枚ある盾の1枚目よ。次の週末、モデルルームに偵察に行くわよ。残りの盾は現地で教える」

まとめ

確認クイズ

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宅建業者Aが自ら売主となる売買で、宅建業者でない買主が次の場所で買受けの申込みをした。クーリングオフができるものはどれ?