三十ページの呪文
土曜の午前、ハンナの会社の商談室。テーブルの上には、エマが一戸目のワンルームを買ったときの重要事項説明書が開かれている。前回この部屋で、重説とは「契約するかどうかを決めるための判断材料を、契約が成立する前に渡す仕組み」だと教わった。今日はその続き——中身を読む番だ。
「改めて見ると、すごい分量ですね……。登記、法令上の制限、造成宅地防災区域。買ったときは呪文にしか見えなくて、正直ほとんど聞き流してました」
「みんなそう。でもこの項目の並びには、全部理由があるの。今日が終わる頃には、この書面を一項目ずつ、意味つきで読めるようになってるから」ハンナは早口でそう言うと、書面の一ページ目を指で叩いた。
一番大事な数字が、ない
「じゃあ最初に小テスト。重説で説明しなきゃいけないことって何だと思う? 思いつくまま挙げてみて」
「えっと、物件の所在と広さ。それから登記。あとは——一番大事な、値段! 売買なら代金、賃貸なら家賃。お金の話を聞かずに契約を決められるわけがないから、真っ先に説明されるはずです」
「じゃあ探してみて。その書面の法定項目のどこに『代金の額』がある?」
エマはページをめくった。代金以外に授受される金銭、損害賠償額の予定、手付金等の保全措置——お金の話は並んでいるのに、肝心の「代金そのもの」を説明する項目が、どこにもない。
「……ない。これ、記載漏れじゃないですか?」
「ひっかかったね。代金や借賃の額そのものは、35条の説明事項じゃないの。試験でも定番のひっかけ。重説は『買うか借りるかを判断するための材料』を渡す場面で、いくらで取引するかは、その材料を見たうえで当事者が合意する契約の中身そのもの。役割が違うのよ。決まった代金や借賃をきちんと書面に残すのは、この次に話す37条書面の仕事」
「大事だから載る、じゃなくて、役割で分かれてるんだ……」エマはノートに「35条=判断材料。代金・借賃は37条へ」と書きつけた。
物件の話と、条件の話
「本題に入るよ。説明事項は数が多いけど、その物件はどういうものかと、どういう条件で取引するかの二つの束に分けると頭に入る」
ハンナは書面の余白に線を引き、項目を二列に振り分けていった。
「物件の束から。まず登記された権利の種類と内容。抵当権が残っていないか、名義人は誰か。エマさん、契約直前のアパートで登記簿の抵当権に気づいて踏みとどまったことがあったでしょ。あれを契約の前に必ず言わせるのがこの項目。次に都市計画法や建築基準法みたいな法令に基づく制限の概要。それから私道に関する負担、飲用水・電気・ガスの整備状況、未完成物件なら完成時の形状・構造」
「災害の項目もこっちの束ね。造成宅地防災区域、土砂災害警戒区域、津波災害警戒区域の中かどうか。そして水害ハザードマップの中で物件がどこにあるか。これは大きな水害が相次いだのを受けて追加された、比較的新しい項目。あとは石綿の使用調査の結果が記録されていればその内容、旧耐震の建物——昭和56年6月1日より前に新築工事に着手したもの——が耐震診断を受けていればその内容」
「条件の束は、お金と『もしも』の話。代金以外に授受される金銭の額と目的——手付金や固定資産税の清算金ね。契約の解除に関する事項、損害賠償額の予定・違約金。それから手付金等の保全措置の概要、支払金・預り金の保全措置、住宅ローンのあっせんの内容と、ローン不成立のときの措置。最後に契約不適合責任の履行に関する措置——保証保険をつけるか、という話」
「もしもの話ばっかりですね」
「そう。条件の束は『揉めそうなところを先に言っておく』リストなの。実務ではここの説明が一番ピリピリする」
借りる人には、借りる人の重説
「ここまでは売買が中心。じゃあ賃貸だとどう変わるか。借主さんに、私道負担の説明は要ると思う?」
「借りる人も私道を通るだろうから……要る、ですよね?」
「これもひっかけ。私道負担は、建物の貸借のときだけ説明不要なの。私道の負担は土地の所有や利用にくっついてくる話で、建物を借りて住むだけの人には関係ないから」
「えっ、じゃあ土地を借りる場合はどうなるんですか?」
「土地の貸借なら必要。借りた土地に家を建てるなら私道の負担は生活に直結するからね。そのかわり建物の貸借では、台所・浴室・便所などの設備の整備状況、契約期間と更新、定期建物賃貸借ならその旨、敷金の精算、管理人の氏名・住所——住む人が困らないための項目が足される」
「所有する人の悩みじゃなくて、住む人の悩みを説明するんだ」
「いい要約。マンション、つまり区分所有建物も同じ発想で整理できる。売買なら、敷地に関する権利、共用部分の規約、専有部分の利用制限の規約、管理費と修繕積立金——滞納があれば滞納額まで——、管理の委託先、と追加項目がずらっと並ぶ。でも貸借なら、専有部分の利用制限の規約と、管理の委託先の二つだけ。借主は修繕積立金を払わないし、敷地の権利も関係ないから」
ハザードマップを開いてみる
「せっかくだから一つ、実物を見よう」ハンナはスマホを取り出し、エマの物件がある市のホームページから水害ハザードマップを開いた。青の濃淡で塗り分けられた地図に、二人で顔を寄せる。
「駅がここで、私のマンションは……あ、色が塗られていない側だ」
「実務ではこうやって、水防法に基づくハザードマップで物件のおおよその位置を示しながら説明する。売買だけじゃなく貸借でも必要だからね。じゃあ仕上げに試験風の問題。『宅建業者が建物の貸借の媒介で、私道に関する負担について説明しなかった。業法違反か?』」
「違反じゃない! 建物の貸借では私道負担は説明事項じゃないから」
「『区分所有建物の貸借の媒介で、修繕積立金の額を説明しなかった』は?」
「それも違反じゃない。貸借は利用制限の規約と管理の委託先の二つだけ」
「上出来。買ったときは呪文だったんでしょ、それ」
エマは自分の重説書面を見下ろした。一項目ずつ指でなぞると、どの行にも「これを知らずに契約した人が、昔きっと泣いた」という物語が透けて見える気がした。ただ、一つだけ宿題が残っている。
「ハンナさん。代金や家賃は37条書面の仕事、って言いましたよね。その37条書面って、何者なんですか?」
「次回のお楽しみ。今度は契約書の話をしよう」
まとめ
- 35条の説明事項は「物件に関する事項」と「取引条件に関する事項」の二つの束で整理する
- 代金・借賃の額そのものは35条の説明事項ではない。決まった額を残すのは37条書面の役割
- 私道に関する負担は、建物の貸借のときだけ説明不要(土地の貸借では必要)
- 土砂災害警戒区域などの区域該当性や水害ハザードマップにおける所在地は、売買でも貸借でも説明する
- 区分所有建物の追加事項は、貸借では「専有部分の利用制限の規約」と「管理の委託先」の二つだけ
確認クイズ
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宅建業者が建物の貸借の媒介を行う場合、重要事項として説明する必要がないものはどれか。