契約を守る砦

第1章

契約の前に必ず聞く話

重要事項説明の基本。誰が・誰に・いつ・どうやって。IT重説

呪文だった書面

土曜の午後、エマは駅前にあるハンナの不動産会社の商談室にいた。ヴィクトルからは「業法の後半は現場を知るハンナに習うのが早い」と言われている。そのハンナが「今日はいいものを持っておいで」と指定したので、クリアファイルに挟んで持ってきたのは、一戸目のワンルームを買ったときに受け取った分厚い書面——「重要事項説明書」だった。

「懐かしいでしょう、それ」とハンナはお茶を出しながら笑った。「買ったとき、どんな気持ちで聞いてた?」

「正直に言うと……呪文でした」エマは苦笑いした。「契約の日、スーツの男性が身分証みたいなカードを見せて、この書面を一時間くらい読み上げてくれて。私はただ頷いてました。早く終わらないかなあって」

「その『スーツの男性』が宅建士。『カード』が宅建士証。エマがいま試験勉強で追いかけているものの、正体そのものよ」

エマははっとした。広告のルールを学び、問い合わせから内見までの流れを追いかけてきたのが前回まで。その先、契約の直前に必ず現れる関門——それがこの書面だったのだ。

何のための一時間だったのか

「でも、正直まだ腑に落ちていないんです」エマは書面をめくりながら言った。「あの一時間は、何のためにあったんでしょう。契約書は別にありますよね。だったら契約書だけ丁寧に読めばいいのに、って当時も思ってました」

「いい問いね。重要事項説明——実務では『重説』って呼ぶけど——は宅建業法35条が定める手続きで、業法の中でも最重要の条文と言っていい。試験でも毎年必ず出る。じゃあ逆に聞くわよ。エマはあの説明を、いつ受けた?」

「ハンコと一緒」の勘違い

「いつって、契約の日ですよ。重説って、契約書にハンコを押すときに一緒に聞くものですよね? 私のときも同じテーブルで、説明のすぐ後に署名しましたし」

「半分正解で、半分危険な勘違い」ハンナは人差し指を立てた。「法律が決めているのは、契約が成立するまでの間に説明すること。つまり重説は契約とセットの儀式じゃなくて、契約のに終わっていなければならない手続きなの。想像してみて。ハンコを押して契約が成立した後に『実はこの土地、都市計画道路の予定地でして』と説明されたら、どうする?」

「えっ、それは困ります。先に知っていたら契約しなかったかも……あ」エマは声を上げた。「そうか。契約するかどうかを決めるための材料なんだ。だから、決めた後に聞いても意味がない」

「そのとおり。宅地や建物の取引は権利関係も法規制も複雑で、買う側が自力で調べ切るのはまず無理。だから法律は、プロである宅建業者に『判断材料を契約の前に出せ』と義務づけた。それが重説の趣旨。エマのときみたいに契約と同じ日でも、成立の前に済ませていれば法律上は適法。ただ、実務では前もって書面を渡して、読み込む時間を取ってもらうのが望ましいとされているわ」

誰が、誰に、いつ、どうやって

「重説は四つの問いで整理すると忘れない」ハンナはホワイトボードにペンを走らせた。

「一つ目、誰が。義務を負うのは宅建業者、つまり会社。ただし実際の説明は宅建士にやらせなければならない。ここで最初のひっかけ。その宅建士は、事務所に置く『専任』の宅建士である必要は?」

「……ない、ですか?」

「正解。事務所に何人置くかという設置の話と、誰が説明できるかという資格の話は別。宅建士でありさえすればいい。そして説明のときは、相手から求められなくても宅建士証を提示する義務がある。エマが見た『カード』はそれ」

「二つ目、誰に。物件を取得しよう、借りようとしている人——つまり買主や借主になろうとする者に対して。裏を返すと、売主や貸主には説明しなくていい」

「えっ、売主は仲間外れなんですか?」

「考えてみて。その物件をいちばんよく知っているのは誰?」

「あ……売主本人だ。判断材料が必要なのは、これから手に入れる側だけなんですね」

「三つ目、いつ。さっきやったわね。契約が成立するまでの間。四つ目、どうやって。重要事項を記載した書面——35条書面と呼ぶ——を交付したうえで説明する。書面には宅建士の記名が必要。いまは相手方の承諾を得れば、紙の代わりに電子データで提供することもできるわ」

ちなみに、と言ってハンナは時系列の矢印を書き足した。契約が成立したには「37条書面」という別の書面が待っているが、それはもう少し先の話だという。

媒介契約から重要事項説明(契約成立前)、契約締結、37条書面交付(契約成立後)、引渡しまでの時系列を示す図
取引の時系列 — 重説は契約の前、37条書面は後

「ここから応用が二つ。まず、相手方が宅建業者だったら? プロにプロ向けの判断材料を読み上げるのは釈迦に説法だから、説明は省略できる。ただし35条書面の交付までは省略できない。ここ、試験で何度も狙われるから線を引いておいて」

「もう一つがIT重説。テレビ会議のような仕組みで、画面越しに重説をする方法。賃貸だけの制度と思われがちだけど、いまは売買でも認められている。ただし条件があって、映像と音声を双方向でやり取りできる環境で行うこと、宅建士証を画面に映して相手が確認できたことを確かめること、書面はあらかじめ相手の手元に届けておくこと」

「それと、一つの取引に業者が複数関わることもある。売主側と買主側で別の会社が媒介につく場合とかね。その場合、重説の義務は関与した業者すべてにかかる。実務では代表して一人の宅建士が説明するけど、それで他の業者の義務が消えるわけじゃない。そして重説の義務に違反すれば、指示処分や業務停止処分といった監督処分の対象になる。この書面一枚に、会社の免許がかかっているのよ」

腕試しの三問

「じゃあ、本試験風にいくわよ」ハンナは指を折りながら設例を出した。

「第一問。宅建業者Aは、買主Bとの売買契約が成立した後、遅滞なく宅建士をして重要事項を説明させた。業法に違反する?」

「違反です。重説は契約が成立するまでにやらないと、判断材料になりません」

「第二問。宅建業者Aは売買の媒介にあたり、買主Bには重説をしたが、売主Cには何の説明もしなかった」

「それは……違反ではない、です。説明の相手方は、買主や借主になろうとする者だけだから」

「最後。買主が宅建業者だったので、Aは35条書面の交付そのものを省略した」

「違反です! 省略できるのは説明だけで、書面の交付は必要です」

「全問正解。上出来よ」

エマは、机の上の自分の重要事項説明書をもう一度手に取った。表紙の宅建士の記名。あの日カードを見せてくれた意味。読み上げの一時間が始まった位置が、取引の流れのどこだったのか。呪文にしか聞こえなかった手続きの一つひとつに、自分を守るための理由があったのだ。

「なんだか……初めてこの書面と目が合った気がします」エマはページをぱらぱらとめくった。「でも、変ですね。一番知りたいはずの物件価格が、真っ先にどーんと書いてあるわけじゃないんだ」

「いいところに気づいたわね」ハンナはにやりと笑った。「この書面に何を書くべきかは法律が列挙している。そして実は、代金そのものはその必須リストに入っていない。なぜか——それは次回のお楽しみ」

まとめ

確認クイズ

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宅建業法35条の重要事項説明を行うべき時期として正しいものはどれか。