契約を守る砦

第3章

契約書に残すべきこと

重説の隣に自分の売買契約書を並べたエマが、37条書面に「必ず書くこと」と「定めたら書くこと」を見分ける

答え合わせは一枚めくった先に

土曜の午前、駅前の不動産会社の商談室。エマは三週続けてこの席に座っている。テーブルには、先週まで一項目ずつ解読していた重要事項説明書。そして今日はその隣に、家から持ってきたもう一冊の冊子が並んでいた。エマが一戸目のワンルームを買ったときの、売買契約書だ。

「宿題の答え、見つかった?」と、ハンナが早口で切り出した。先週の別れ際、エマは「肝心の代金や家賃の額が、重要事項説明の項目にない」という謎を抱えたまま帰ったのだった。

「見つけました。家で契約書を開いたら、一ページ目のいちばん上に、でかでかと。『売買代金』の額が書いてありました」

「正解。代金や借賃そのものは、重要事項説明書ではなく契約書に書く。そして宅建業法は、この契約書のほうにもちゃんと名前とルールを用意してる。37条書面──試験でも実務でも、重説と並ぶもう一枚の主役よ」

同じことが二回書いてあるんですけど

エマは二冊を左右に並べて、ぱらぱらと見比べた。そして素朴な疑問が口をついて出た。

「あれ? でも、『契約の解除』とか『損害賠償額の予定・違約金』とか、同じ見出しが両方にありますよ。重説であれだけ細かく説明したのに、契約書にまた書くんですか? 二度手間じゃないですか?」

「いい質問。じゃあ逆に聞くけど、この二枚、役割は同じだと思う?」

「えっと、重説が『契約前の説明』で、契約書は『契約のしるし』……。でも中身が重なるなら、一枚にまとめてもいい気がします。それに契約書のほうも、宅建士さんが読み上げて説明してくれるんですよね? 私のときもたしか、そうだったような」

「残念、後半は思い込み」ハンナは容赦なく言った。「37条書面に、説明の義務はない。『説明された』という記憶は、たぶん重説の記憶と混ざってるわね」

「えっ。じゃあ、もうひとつ確かめたいことが」エマは契約書のページを繰った。「重説にあった『手付金等の保全措置』が、契約書のどこにも見当たらないんです。これ、不備じゃないですか?」

「不備じゃない。それはそもそも37条書面の記載事項じゃないの。──ふふ、いい感じに引っかかってくれた。試験に出るひっかけを、いま二連発したわよ」

前を照らす書面、後ろに刻む書面

ハンナはホワイトボードに縦線を一本引き、左に「35条」、右に「37条」と書いた。

「整理するわよ。重要事項説明、つまり35条書面の仕事は、契約するかどうかを決めるための判断材料を、契約の前に届けること。だから相手は『買おうか借りようか迷っている人』で、宅建士が説明までする。一方の37条書面の仕事は、成立した契約の内容を証拠として残し、あとの紛争を防ぐこと。『言った・言わない』の水掛け論になったとき、立ち返る場所を作るの」

「だから、契約の後なんですね」

「そう。契約が成立したら、遅滞なく交付する。そして証拠なんだから、渡す相手は──」

「あ……売主さんにも、ですか? 重説は買主側だけでよかったけど」

「そのとおり。契約の両当事者。売買なら売主と買主、貸借なら貸主と借主の双方に渡す。約束は両方のものだからね。業者が自ら売主なら、その相手方に渡せばいい。それから、書面には宅建士の記名が要る。ただし説明はしなくていいし、書面を手渡す係は宅建士でない従業者でも構わない。宅建士証の提示も不要よ」

「実務ではね、37条書面を独立した紙で作ることはまずなくて、売買契約書や賃貸借契約書に必要な事項を盛り込んで兼ねさせるの。あなたが持ってきたその契約書が、まさに37条書面の役目を果たしてるってわけ」

必ず書くことと、決めたら書くこと

「次は中身。37条書面の記載事項は、二つのグループに分かれる」ハンナはボードに二列の枠を書いた。「一つ目は必要的記載事項。定めがあろうがなかろうが、必ず書くこと。──当事者の氏名・住所、宅地や建物を特定するための表示、代金の額と支払時期・方法、引渡しの時期、そして移転登記の申請の時期。中古の建物なら、構造耐力上主要な部分などの状況について当事者双方が確認した事項も加わる」

「貸借のときはどうなるんですか?」

「代金の代わりに借賃の額と支払時期・方法。それから、移転登記の申請時期は売買だけ。貸借では所有権が動かないから、登記の出番がないの」

「二つ目のグループが任意的記載事項。こっちは『定めがあるときは、その内容』を書く。定めをしなければ書かなくていい。──代金や借賃以外に授受される金銭(手付金など)の額・時期・目的、契約の解除、損害賠償額の予定・違約金、天災その他不可抗力による損害の負担、契約不適合責任やその履行措置についての定め、租税公課の負担、ローンのあっせんの定めがあるときは、それが不成立に終わった場合の措置」

エマはノートに二列の表を書き写しながら、さっきの謎が解けていくのを感じた。契約の解除も違約金も、「定めるかどうかは自由。ただし定めたなら証拠に残せ」の側なのだ。重説の「解除に関する事項」は判断材料としての説明、契約書のそれは決まった約束の記録。同じ見出しでも、役割がまるで違う。

二枚の書面で間違い探し

「仕上げに過去問風の問題。──宅建業者A社は、自ら売主として、宅建業者でない買主と宅地の売買契約を締結した。A社は37条書面に手付金等の保全措置の概要を記載したが、引渡しの時期は重要事項説明で伝えてあったため記載しなかった。さて、どこが違反?」

エマは二冊の書面を見比べながら、ゆっくり答えた。

「引渡しの時期は必要的記載事項だから、重説で話したかどうかに関係なく、必ず書かなきゃいけない。記載しなかったのは違反です。保全措置のほうは、37条書面の記載事項ではないけど……書いたら違反、というわけではない?」

「正解。義務の最低ラインを定めているだけだから、余計に書く分には構わない。『書かなければならないか』と聞かれたら、答えはノーだけどね」

「えっ、じゃあ、もし買主も宅建業者だったらどうなるんですか? 重説の説明は省略できるって先週やりましたよね。契約書も……」

「省略できない。業者どうしの取引でも、37条書面は必ず交付する。プロ同士でも『言った・言わない』は起きるから、証拠の書面に例外はないの」

エマはノートの表を仕上げた。代金・借賃の額は37条だけ。引渡しの時期と移転登記の申請時期も37条だけ。手付金等の保全措置は35条だけ。解除や違約金は両方に登場するけれど、37条側は「定めがあれば」。表の余白に、エマは大きく書き足した──重説は取引の前を照らすライト、37条書面は取引の後ろに残る足あと

一年前は読み飛ばしていた契約書の「引渡しの時期」の一行が、今日は「書かれているべくして書かれている一行」に見える。

「これで媒介契約から重説、契約、37条書面まで、取引の正規ルートを一周したことになる」ハンナは満足げに頷いた。「次からは特別編よ。業者が自ら売主になるときだけ発動する、買主を守る特別ルール。手始めに、契約したあとでも頭を冷やしてやり直せる制度の話」

契約したら簡単には後戻りできない──民法を学んだときにそう叩き込まれたエマには、にわかに信じがたい予告だった。

まとめ

確認クイズ

1 / 5

35条書面(重要事項説明書)と37条書面の違いに関する記述のうち、正しいものはどれ?