供託所に一円も預けていない会社
土曜の午後、エマは駅前にあるハンナの会社の商談室にいた。約束より少し早く着いてしまい、壁に掛かった額入りの証書をなんとなく眺める。「宅地建物取引業保証協会 会員之証」。その隣には、ハトをかたどったマークのステッカーも貼られている。
「お待たせ。ああ、それが気になった?」
書類の束を抱えたハンナが、早足で入ってきた。エマはかばんからノートを取り出す。開いたページには、前回教わった「二つの安全網」——営業保証金は業者が供託所へ直接、保証協会は分担金を協会へ——の図を、自分なりに描き写してあった。
「前回の続きで、ずっと引っかかってることがあるんです。営業保証金って、本店だけでも一千万円でしたよね。ハンナさんの会社も、供託所にそれだけ預けてるんですか?」
「いい質問。答えはゼロ。うちは供託所に一円も預けてない」
「えっ……じゃあ、もしもの時、この会社のお客さんは何に守られるんですか?」
「ちゃんと守られる。しかも保護の厚さは営業保証金と同じ。その種明かしが、壁のあの会員証」
エマは頭の中を整理した。前回の結論はこうだった。供託というお金の裏付けがあるからこそ、お客は業者に大金を預けられる。そして最後に残ったのが「一千万円を用意できない小さな会社は、開業できないのでは」という疑問だ。でも現実には、駅前に小さな不動産屋さんはいくらでもある。あの会社たちはどうやって開業しているのか。お金を預けていないのに同じだけ守られるなんて、そんな都合のいい話があるのだろうか。
「その答えが保証協会。加入するときに協会へ納めるのは、主たる事務所につき六十万円、その他の事務所は一か所につき三十万円。名前は弁済業務保証金分担金という」
六十万円ぶんしか守られない?
「六十万円!? 一千万円が、六十万円に……」エマは身を乗り出し、それから、わかった、という顔になった。「読めましたよ。安くなるかわりに、お客さんが弁済してもらえる上限も六十万円まで。そういう割り切りなんでしょう?」
「試験ではまさにそこがひっかけになる。答えはノー。お客さんが弁済を受けられる限度額は、その業者が『もし協会に入っていなかったら供託すべき営業保証金の額』に相当する範囲。本店だけの業者なら一千万円。業者が六十万円しか納めていなくても、守りの枠は一千万円のまま」
「どうしてそんなことができるんですか? 六十万円しか入っていない財布から、一千万円は出せません」
「一人の財布ならね。協会には全国の何万という業者が社員——会員のことをこう呼ぶ——として加入していて、めいめいが分担金を納めている。協会はそれをまとめて、弁済業務保証金というひとつの大きなプールとして供託所に供託する。事故を起こす業者は全体のほんの一部だから、みんなで積んだプールなら、一件ごとの弁済は営業保証金と同じ水準を保てる。だから『分担』金。業界みんなで入る保険のようなものだね」
エマはノートに、小さな矢印がたくさん集まって大きなプールに注ぎ込む絵を描いた。六十万円は保証の上限額ではなく、プールへの出資金だったのだ。
みんなで積む大きなプール
「お金の流れを時系列で追ってみよう」ハンナはホワイトボードに矢印を引いた。「まず業者は、協会に加入しようとする日までに分担金を納付する。入ってから後払い、は不可。次に協会は、納付を受けた日から一週間以内に、同じ額の弁済業務保証金を供託する。供託先は業者ごとの最寄りではなくて、法務大臣と国土交通大臣が定める供託所にまとめて、ね」
「業者が供託所と直接やり取りしない分、間に協会が挟まるんですね」
「そのとおり。で、ここが今日いちばんのひっかけポイント」
「あと、事務所を増やしたときも要注意。新しく事務所を設置した日から二週間以内に、その分の分担金三十万円を納付する。遅れたらどうなると思う?」
「催告があって、それでもダメなら……とか?」
「ない。その時点で社員の地位を失う。実務ではありえないミスだけど、条文はそれくらい厳しくできてる」
還付のあとに起きること
「もうひとつ、気になっていたことが」エマはプールの絵を指でなぞった。「実際に事故が起きてお客さんに還付されたら、プールのお金は減りますよね。それで終わりですか? 事故のたびに、みんなの積立が目減りしていく……?」
「いい着眼。減らしっぱなしにはしない。ここからが補填のサイクル」
ハンナはボードに番号を振りながら続けた。損害を受けたお客は、まず協会の認証を受けたうえで、供託所から還付を受ける。すると協会は、還付の通知を受けてから二週間以内に同じ額を供託し、プールを埋め戻す。そして協会は、事故を起こした社員に「埋め戻した分を納めなさい」と通知する。通知を受けた社員は、二週間以内に還付充当金を協会へ納付しなければならない。納付しなければ——
「まさか、また社員の地位を失う?」
「そう。そして社員でなくなった業者は、その日から一週間以内に営業保証金を供託しないと営業を続けられない。本店だけでも一千万円。用意できなければ、事実上そこまで」
「つまり、最終的に負担するのは事故を起こした本人で、プールは一時的に立て替えているだけなんですね」
「それが弁済業務の正体。ちなみに協会をやめた業者の分担金は、協会が弁済業務保証金を取り戻したうえで返してくれる。このとき、還付を受けるべき人は申し出よ、という六か月以上の期間を定めた公告も協会がやってくれる。営業保証金の取戻しでは業者が自分で公告したのと対照的だね」
エマは、ハンナが出した練習問題をノートで解いてみた。本店のほかに支店を二つ持つ業者が保証協会に加入する場合、分担金はいくらか——六十万円足す三十万円かける二で、百二十万円。協会に入らなければ営業保証金は一千万円足す五百万円かける二で二千万円。そして万一のとき、お客が守られる枠は、どちらの安全網でも二千万円分。数字がすっと出てきたことに、エマは自分で少し驚いた。
「これで前回からの疑問が解けました。小さな会社でも、六十万円と仲間の支え合いで、一千万円と同じ信用を作れるんですね」
「そういうこと。——さて」ハンナは壁を親指で指した。「会員証の隣に、まだ説明していない掲示物がいくつも並んでるの、気づいてた? 次はこの部屋にあるもの、全部説明できるようになってもらうよ」
まとめ
- 保証協会は国土交通大臣が指定する一般社団法人。社員は宅建業者のみで、一つの協会にしか加入できない。必須業務は苦情の解決・研修・弁済業務の3つ
- 弁済業務保証金分担金は主たる事務所60万円+その他の事務所1か所30万円。金銭のみで、加入しようとする日までに納付する
- 協会は納付から1週間以内に弁済業務保証金を供託(こちらは有価証券可)。還付の限度額は分担金の額ではなく営業保証金に相当する額
- 還付があったら、業者は通知から2週間以内に還付充当金を協会へ納付。怠ると社員の地位を失い、その日から1週間以内に営業保証金の供託が必要
- 事務所を新設したら2週間以内に分担金を追加納付(怠ると地位喪失)。取戻しのときの公告は協会が行う
確認クイズ
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本店のほかに支店を2つ設けて営業する宅建業者が保証協会に加入する場合、加入しようとする日までに納付すべき弁済業務保証金分担金の額はどれか。