もしも不動産会社が倒産したら
土曜の午後、エマは駅前にあるハンナの会社の商談室にいた。テーブルの上には、今朝のニュース記事を印刷した紙が一枚。地方の不動産会社が倒産し、買主たちが支払った手付金が戻らないおそれがある——そんな内容だった。
エマには他人事に思えなかった。宅建挑戦を決めるきっかけになった、あの中古アパートの売買契約。違約金条項と抵当権の違和感に気づいて土壇場で踏みとどまったけれど、あのとき自分は、手付金として数百万円を不動産会社に渡す寸前だったのだ。
「ハンナさん。もし、買主が手付金を払った後で、その不動産会社が倒産したら……お金はどうなるんですか」
ハンナはコーヒーカップを置いて、にっと笑った。
「いい質問。先週は宅建士証——人の資格の話をしたよね。今日はその続き。お金の安全網の話をしよう」
会社が消えても、お金は戻るのか
エマは疑問を自分の言葉に置き直してみた。会社が倒産すれば、銀行も取引先も従業員も、いっせいに債権者として押し寄せる。何も知らずに手付金を払っただけの一般のお客さんが、その長い列の後ろに並ばされたら、お金はまず戻ってこない。プロと素人が取引する商売なのだから、素人の側を守る特別な仕組みがないとおかしい——。
「そのとおり。だから宅建業法は、業者に『先にお金を積ませておく』の」とハンナはホワイトボードに大きな図を描いた。「仕組みは2つ。1つめは、業者が自分で供託所にまとまったお金を預けておく営業保証金。2つめは、業者みんなで少しずつお金を出し合って、協会がまとめて備える保証協会の仕組み。今日は左側の営業保証金。右側は次回のお楽しみ」
「預けたら、すぐ営業できるんですよね?」
「営業保証金の流れはこう。免許をもらった業者は、営業を始める前に、主たる事務所の最寄りの供託所にお金を預ける。供託所っていうのは、法務局に置かれている、国がお金を預かってくれる窓口ね」
「なるほど。じゃあ、免許をもらって、お金を預けたら、その日から営業を始められるんですね!」
「ブブー。そこ、試験でいちばん狙われるところ」ハンナは楽しそうに指を振った。「供託しただけではまだダメ。供託した旨を免許権者に届け出て、その後でなければ事業を開始できない。供託→届出→事業開始、の3ステップ。免許権者は、届出があってはじめて『この業者はちゃんとお金を積んだな』と確認できるでしょ」
エマはノートに「供託だけでは営業できない!」と書いて、二重丸をつけた。
「ちなみにエマさん、いくら積むと思う?」
「うーん……開業のときの保証金だから、100万円くらい?」
「本店につき1,000万円。支店があれば1件ごとに500万円を上乗せ」
エマはペンを取り落としそうになった。「1,000万円!? しかも預けっぱなしなんですよね? うちの近所の小さな不動産屋さんも、みんな1,000万円を……? そんなの、小さい会社は開業できないじゃないですか」
「その疑問はすごく大事。答えはさっきの図の右側にあるんだけど——焦らない。まずは原則である営業保証金を、最後まで固めよう」
数字でできた安全網
「整理するよ」とハンナはボードに書きながら、早口で続けた。
供託するのは金銭だけとは限らない。国債や地方債などの有価証券でも供託できる。ただし、種類によって評価額が割り引かれる。**国債証券は額面金額の100%**で評価されるが、地方債証券や政府保証債証券は90%、**それ以外の国土交通省令で定める有価証券は80%**でしか評価されない。
「どうして割り引くんですか? 額面1,000万円の債券は、1,000万円の価値でしょう?」
「債券は値動きするから。いざ換金するとき、目減りしているかもしれない。国が発行する国債は満額、それ以外は安全側に低く見積もる。だから額面1,000万円の地方債だけを持って行っても、900万円としか評価されない。足りない100万円は、現金なり別の証券なりで足すことになる」
「もし、免許は取ったのに、いつまでも供託しない業者がいたら?」
「免許権者は、免許をした日から3ヶ月以内に届出がないときは、『早く届け出なさい』と催告しなければならない。それでも催告が届いてから1ヶ月以内に届出がなければ、免許を取り消すことができる。免許だけ取ってお金を積まない業者を、市場に放置しないための仕組みね」
事務所を増やすときも同じ発想が働く。支店を新設したら、その分の500万円を供託して届出を済ませた後でなければ、その支店では事業を開始できない。
「それで——最初の質問に戻るよ。倒産したら、どうなるか」
ハンナはボードの「供託所」を丸で囲んだ。「業者と宅建業に関して取引をして損害を受けた人は、供託所に請求して、この営業保証金から還付——つまり弁済を受けられる。手付金を払ったのに物件を引き渡してもらえない買主は、まさにこれで守られる」
「取引した相手なら、誰でも請求できるんですか?」
「大きな例外が1つ。宅建業者は還付を受けられない。プロ同士の取引まで、この安全網で守ってあげる必要はないという考え方。それと『宅建業に関し取引をした者』だから、業者に広告を頼んだ広告会社の代金とか、事務所を貸している大家さんの家賃みたいな債権も対象外。あくまで売買や媒介という取引から生まれた債権だけ」
「還付でお金が出ていったら、安全網に穴があいたままになりませんか?」
「ならない。免許権者から不足額の通知を受けた日から2週間以内に、業者は不足分を供託し直さなきゃいけない。網は常に満額に張り直される」
ノートの上で会社をひとつ倒産させる
「じゃあ、模擬試験ね」ハンナは指を3本立てた。「第1問。A社は本店のほかに支店を2つ設けて宅建業を営む。営業保証金はいくら? どこに供託する?」
エマはノートで計算した。本店1,000万円、支店500万円×2で——「合計2,000万円。供託先は本店と支店それぞれの最寄り……じゃなくて、主たる事務所の最寄りの供託所にまとめて、です」
「正解。第2問。A社と取引した一般の買主Bさんが、手付金500万円分の還付を受けた。A社はその後どうする?」
「免許権者から通知を受けて、2週間以内に500万円を供託し直す」
「第3問。A社が廃業して免許が失効した。積んであった2,000万円は、すぐ返してもらえる?」
エマは少し考え込んだ。会社としては返してほしいはずだ。でも、まだ名乗り出ていない被害者がいるかもしれない——。
「……すぐには、返せない?」
「そのとおり。還付を受ける権利を持つ人に向けて、6ヶ月以上の期間を定めて『申し出てください』と公告して、期間内に誰も申し出なかったときに、はじめて取戻しができる。ただし、取戻しできる事由が発生してから10年たてば、もう請求は来ないだろうということで、公告なしで取り戻せる」
「最後の最後まで、被害者の側が優先なんですね」
「そういう設計の法律だから。あ、細かいけどもう1つ。本店を引っ越して最寄りの供託所が変わったときは、金銭だけで供託していれば、供託所から供託所へお金を移す保管替えを請求する。有価証券が混ざっていると移せないから、新しい供託所に供託し直してから、元のほうを取り戻す。ここもたまに出るよ」
エマはノートを見返した。供託、届出、還付、補充、取戻し。お金の流れが一本の線でつながった。ただ、ページの端に書いた「1,000万円問題」の文字が、まだ残っている。
「でも……やっぱり、駅前の小さな会社が1,000万円を積んでいるとは思えないんですけど」
「ふふ。実はね、うちの会社も営業保証金は供託してないの」ハンナはいたずらっぽく笑った。「積まなくていい方法があるんだ。みんなで支え合う仕組み——保証協会。それが次回の話」
まとめ
- 営業保証金は主たる事務所の最寄りの供託所に、本店1,000万円+その他の事務所1件につき500万円をまとめて供託する
- 金銭のほか有価証券でも供託できる。評価率は国債100%・地方債等90%・その他80%
- 供託→届出→事業開始の順。供託しただけでは営業できない。免許から3ヶ月以内に届出がないと催告され、催告から1ヶ月以内に届出がなければ免許を取り消されることがある
- 還付を受けられるのは宅建業に関し取引をした者に限られ、宅建業者は除かれる。還付で不足が生じたら通知を受けた日から2週間以内に補充供託する
- 取戻しには原則6ヶ月以上の公告が必要(取戻し事由の発生から10年経過すれば公告不要)
確認クイズ
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宅建業者A社は、本店のほかに支店を2つ設けて宅建業を営もうとしている。供託すべき営業保証金の合計額として正しいものはどれ?