買うことばかり考えていた
「ずっと、買うときの話ばかりしてきました」とエマは言った。「でも、いつかは売る日が来ますよね。売るときのことを、私、何も考えていませんでした」
ヴィクトルは満足そうに頷いた。「そこに自分でたどり着いたなら、もう一人前だ。多くの人は、買うことにすべての気力を使い果たして、出口——どう売って終わらせるかを、まったく設計しない。だが、第一章で言ったことを覚えているか」
「儲け方は二つ。持っているあいだの家賃と、売ったときの差益……キャピタルゲイン」
「そうだ。投資の損得は、その両方を合わせて、売って初めて確定する。**買った瞬間に勝ち負けは決まらない。売って、ようやく答え合わせだ。**だから出口の設計は、買うときの計算と同じくらい大事なんだ」
売れない、という最大のリスク
「出口で、まず考えるべきことは何ですか」
「そもそも『売れるのか』だ」とヴィクトルは言った。「不動産は、株みたいにボタン一つで売れない。買い手が現れて、値段が折り合って、契約して、やっと現金になる。早くて数か月、立地が悪ければ一年以上かかることもある。最悪、いくら値を下げても買い手がつかないこともある」
エマは、第四章の地方アパートを思い出した。人が減り、仕事もなく、駅から遠い。あれは、買うのも危ないが、売るのはもっと難しい物件だ。
「立地の良さは、家賃需要を支えるだけじゃない。売るときの買い手も呼ぶんだ。**入口で立地を軽んじると、出口で誰も買ってくれない。**買うときと売るときで、立地は二回効く」
五年の壁
「売れるとして、次は税金だ。ここに、知らないと数百万円を損する落とし穴がある」
ヴィクトルはナプキンに「5年」と大きく書いた。
「不動産を売って利益が出たら、その利益に譲渡所得税がかかる。この税率が、持っていた期間で二段階に分かれる。**所有五年以下で売ると『短期』で、税率はおよそ四割。五年を超えてから売ると『長期』で、およそ二割。**同じ利益でも、税率が倍近く違う」
エマは目を見張った。「倍……。たとえば利益が一千万円出たら?」
「短期なら約四百万、長期なら約二百万が税金だ。その差、約二百万円。売る時期を半年ずらすだけで、二百万円が消えたり残ったりする」
「一月一日」の罠
「しかも、この五年の数え方に、意地の悪い罠がある」とヴィクトルは続けた。「五年かどうかは、売った日そのものじゃなく、売った年の一月一日の時点で判定される」
「売った日じゃなくて……その年の、一月一日?」
「そうだ。たとえば、ある年の一月に買った物件を、五年後の同じ一月に売るとする。実際にはまるまる五年持っている。ところが、その売った年の一月一日の時点では、まだ四年と少ししか経っていない。だから『短期』扱いになって、高いほうの税率が適用される。あと少し、数週間待って年を越してから売れば『長期』になったのに、だ」
エマは、その罠の意地の悪さに、思わず唸った。カレンダー上は五年でも、税務上はまだ五年に届いていない。この数え方を知らずに、五年ちょうどで焦って売った人は、知らないうちに倍の税金を払っている。
「出口の設計というのは、こういうことだ。いつ売るか、そのとき税率はどちらか、手取りはいくら残るか。それを買う前から計算に入れておく。買うときの利回りと、売るときの手取りは、一本の線でつながっている。」
エマの答え
長い沈黙のあと、エマは、ずっと持ち歩いていた例のワンルームの資料を、テーブルに置いた。
「私、この物件は買いません」
そして、自分の言葉で理由を並べた。実質利回りは3%を切る。フルローンでキャッシュフローはマイナス、毎月の持ち出しがある。「節税」は現金の持ち出しを覆い隠す言葉で、減価償却が切れればデッドクロスが来る。立地は悪くないが、その良さは高い値段に消えていて、数字が見合わない。そして出口——三十五年後にいくらで売れるかは、誰も約束していない。
「最初は、『二万円で三千万円が手に入る』話に見えました。でも物差しを一本ずつ当てていったら、全部の面で、割に合わないってわかりました」
「一つ聞いていいですか」とエマは尋ねた。「私みたいに、現物の物件は難しそうって人でも、不動産には関われるんでしょうか」
「あるぞ。不動産投資信託——J-REITというやつだ。多くの人から集めたお金で、運用のプロがオフィスビルやマンションをまとめて買って運用する。その持ち分を、株みたいに少額で、いつでも売買できる。現物みたいにローンを組む必要も、入居者対応や修繕の手間もない。流動性の低さという弱点も、ずいぶん和らぐ」
「それなら、そっちのほうが気楽そうですね」
「気楽さと引き換えに、失うものもある。ローンというてこが使えないから、自己資金の何倍もの物件を動かす、あの増幅は効かない。減価償却で自分の給料の税金を圧縮する、といった芸当もできない。値動きは株式市場に連動して上下する。**現物は手間とリスクを引き受けて大きなリターンを狙う道、REITは手間を手放すかわりに増幅もあきらめる道だ。**どちらが上ということはない。自分がどれだけ関わりたいかで選べばいい」
エマは、不動産投資という言葉が、思っていたよりずっと幅の広いものだと知った。ワンルームも、一棟も、戸建ても、そして現物を持たないREITも、すべて同じ「不動産で稼ぐ」の中にある。大事なのは、どれを選ぶにしても、自分の物差しで測れることだ。
ヴィクトルは、静かに拍手した。「それが、俺が渡したかったものだ。『この物件を買え』でも『買うな』でもない。自分で数字を当てて、自分で判断できる目だ。次にお前さんがいい物件に出会ったときは、今度は『買う』と、根拠を持って言えるはずだ」
オルゴールの細い音楽が、いつものように流れていた。エマは、最初にこの席に座った日の自分を思い出した。あのとき手を伸ばしかけていた契約書は、いま、自分の意思で、そっと閉じられた。
まとめ
- 投資の損得は売って初めて確定する。出口(どう売るか)の設計は、買うときの計算と同じくらい重要
- 不動産は流動性が低い。売れるかどうか、誰がいくらで買うかを、買う前に想像しておく
- 売却益への譲渡所得税は、所有5年以下=短期(約39.6%)、5年超=長期(約20.3%)で倍近く変わる
- 5年の判定は売った年の1月1日時点。カレンダー上の5年ちょうどでは短期扱いになる罠がある
- 買うときの利回りと売るときの手取りは一本の線。物差しを当てて自分で判断できる目こそが、投資の土台
確認クイズ
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不動産投資の損得は、物件を買った時点でほぼ確定する