大家への第一歩

第1章

二つの儲け方

「家賃がまるごと儲け」だと思っていたエマが、不動産で稼ぐ二つの道を知る

三十五年の重み

駅裏の細い路地に、「オルゴール」という古い喫茶店がある。壁のスピーカーからは、名前のとおり本物のオルゴールみたいに細い音楽が流れていた。エマがこの席に座るのは、もう三度目だ。

きっかけは、一本の電話だった。会社の昼休み、知らない番号から「将来の資産形成のご案内です」とかかってきた。断りきれずに聞いているうちに、担当者は熱を帯びてきた。都心の新築ワンルームマンション。価格はおよそ三千万円。フルローンが組めるので、自己資金はほとんど要らない。家賃と管理費の差額で、毎月二万円ほどの「持ち出し」はあるけれど、三十五年ローンを払い終えれば、そのあとは家賃がまるまる自分の収入になる——。

「毎月二万円で、三十五年後に三千万円のマンションが手に入る。しかも家賃収入つき。すごくないですか」

エマは三十代の会社員で、貯金はそれなりにある。でも、銀行に置いておくだけの数字を見ていると、将来がじわじわ不安になる。この話は、その不安にちょうど刺さった。契約書を送ってもらう寸前まで行って、ふと手が止まった。三十五年。それは、いまの自分の年齢とほとんど同じ長さだ。その重みに見合うだけのことを、自分は何ひとつわかっていない。

判断を保留にして電話を切ったあと、エマは学生時代の部署の先輩、ヴィクトルに連絡を取った。数年前に会社を辞め、いまは不動産投資だけで暮らしていると噂に聞いていた人だ。「そういう話なら、喫茶店で図を描きながらのほうがいい」と、ヴィクトルはこの店を指定してきた。

「家賃がまるごと儲け」は本当か

「毎月二万円払って、三十五年後に家賃が全部自分のもの。それって、いい話ですよね?」

エマがそう切り出すと、ヴィクトルはコーヒーを一口飲んで、ナプキンにペンを走らせた。

「その計算、どこかで『家賃がまるまる収入になる』って言ってなかったか」

「言ってました。ローンを払い終えたら、って」

「じゃあ聞くけど、マンションを持ってるあいだ、出ていくお金は本当にローンだけか?」

エマは言葉に詰まった。営業の人は、家賃とローンの差額が二万円、としか言わなかった。でも、マンションを持つというのは、それだけのはずがない。固定資産税。管理費。修繕積立金。入居者がいない月の空室。設備が壊れたときの修理代。言われてみれば、思いつくものがいくつもある。

「たとえば家賃が月十万円入るとするだろう。でもそこから管理会社への費用、税金、そのうち来る修繕、空室のリスクを引いていく。ローンを払い終えたあとだって、家賃が『まるまる収入』になることは、まずない」

エマは自分の勘違いに気づいて、少し恥ずかしくなった。家賃という数字だけを見て、その裏に並ぶ支出をまるごと忘れていた。

稼ぎ方には二種類ある

「まず、そもそもの話をしよう」とヴィクトルはナプキンに大きく二本の線を引いた。「不動産で稼ぐ方法は、大きく二つしかない。これを混ぜて考えると、一生ごちゃごちゃする」

「一つ目が、インカムゲイン。物件を持っているあいだ、毎月ちょっとずつ入ってくる家賃だ。これは家賃という川が、細く長く流れ続けるイメージだな。二つ目が、キャピタルゲイン。買った値段より高く売れたときの、その差額だ。こっちは一回きりの、大きな塊で入ってくる」

「営業の人が言ってたのは、インカムゲインのほうですね。家賃が毎月入る、っていう」

「そうだ。日本でいま個人が始める不動産投資は、ほとんどがインカムゲイン狙いだ。バブルの頃は、買ったそばから値上がりして売り抜けるキャピタルゲイン狙いが流行ったが、いまは値上がりを前提にはできない。だから基本は、家賃という川で、毎月の手残りを積み上げていく」

エマはナプキンの二本の線を見つめた。川と、塊。片方は日々の流れで、片方は出口の一撃。営業の話は、その川の部分だけを、しかも実際より太く見せていたことになる。

「じゃあ、私が聞いた話は……家賃という川から、いろんな支出を引いた『手残り』が本当の姿で、それを二万円の持ち出しと引き比べないといけない、ってことですか」

「そういうことだ。しかも、持っているあいだの手残り(インカム)だけじゃ、投資の成否は決まらない。最後にその物件をいくらで売れるか——出口(キャピタル)まで含めて、初めて損得が確定する。買って終わり、じゃないんだ」

川と、出口

エマは手帳に、二つの言葉を並べて書いた。インカムゲイン=持っているあいだの家賃の手残り。キャピタルゲイン=売ったときの差益。 そして、その下にこう書き足した。「三千万円のワンルーム。営業の話は川だけ。しかも太く見せていた」

「この物件、どう思いますか」とエマが尋ねると、ヴィクトルは首を振った。

「いま答えられるわけがない。家賃からいくら残るのか、三千万円という値段は妥当なのか、三十五年後にいくらで売れそうなのか——それを一つずつ数字で見ないと、いい悪いは言えない。今日わかったのは、『判断に必要な物差しを、お前さんはまだ一本も持っていない』ってことだけだ」

厳しい言い方だったが、エマはむしろほっとしていた。あの電話口の高揚感のまま契約していたら、と思うと、背筋が少し寒くなる。物差しを持っていない状態で三十五年の契約に手を伸ばしかけていた。その事実こそが、いちばん危なかった。

「次までに、その物差しを一本ずつ渡していく。最初は『利回り』だ。あの三千万円という値段が高いのか安いのか、それを測る一本目のものさしだよ」

店を出ると、細いオルゴールの音が路地まで追いかけてきた。三千万円のワンルームは、まだエマの頭の中にある。買うとも買わないとも、まだ決めていない。ただ、それを「二万円で三千万円が手に入る話」だとは、もう思わなくなっていた。

まとめ

確認クイズ

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