「利回り8%」の誘惑
一週間後、エマはオルゴールの同じ席で、印刷してきた物件情報の束を広げていた。前回ヴィクトルに「物差しをまだ一本も持っていない」と言われてから、悔しくて、不動産情報サイトを毎晩のように眺めるようになっていた。
その中で、目を奪われる一件があった。地方都市の中古アパート一棟。価格は二千万円で、なんと「利回り8.0%」と大きく書かれている。例のワンルームは三千万円で利回り4%前後だったから、値段は安いのに、利回りは倍。
「ヴィクトルさん、これすごくないですか。二千万円で利回り8%ですよ。ワンルームの倍です。こっちのほうがずっといい物件ですよね」
ヴィクトルは物件情報をちらっと見て、いつものようにコーヒーを一口飲んだ。
「その8%ってのは、何を何で割った数字か、書いてあるか?」
エマは言葉に詰まった。8%という数字は大きく書いてあるが、その計算の中身は、どこにも書いていない。
同じ「利回り」でも中身が違う
「利回りっていう言葉には、実は二種類あるんだ」とヴィクトルはナプキンを引き寄せた。「そして、広告に大きく出てるのは、たいてい都合のいいほうだ」
「二種類……?」
「一つ目が表面利回り。年間の家賃収入を、物件価格でそのまま割っただけの数字だ。この二千万円のアパートなら、満室で年間百六十万円の家賃が入るとして、百六十万÷二千万で8%。計算は簡単だが、経費が一切入っていない」
エマは前章のことを思い出した。家賃はまるまる収入にならない。管理費、税金、修繕、空室。あの「川から引かれる支出」が、表面利回りには入っていない。
「二つ目が実質利回り。家賃収入から経費を引いた手残りを、物件価格に購入時の諸費用まで足したもので割る。こっちが、実際にどれくらい儲かるかに近い数字だ」
8%が4%になる瞬間
「じゃあ、実際に計算してみろ」とヴィクトルはペンをエマに渡した。「このアパート、満室家賃が年百六十万。管理費や税金、修繕の積み立てで、経費が年四十万かかるとする。あと、買うときに仲介手数料や登記でざっと二百万円かかったとしよう」
エマはおそるおそる計算を始めた。手残りは、百六十万から経費四十万を引いて、百二十万円。物件価格二千万に購入時諸費用二百万を足して、二千二百万円。百二十万を二千二百万で割ると——。
「……5.4%。8%が、5.4%まで下がりました」
「そうだ。経費と諸費用を入れただけで、それだけ落ちる。しかもいまのは満室での話だ。地方のアパートで、部屋の二割が空いたらどうなる」
エマはもう一度計算した。家賃が二割減って年百二十八万。経費四十万を引いて手残り八十八万。二千二百万で割ると、4.0%。
「4%……。ワンルームと同じになっちゃいました」
「それが利回りの正体だ。**表面利回りは、物件を大まかにふるいにかけるための入り口の数字でしかない。**そこから経費を引き、空室を見込み、諸費用を足して、初めて本当の姿が見える。8%という数字に飛びつくのは、値札しか見ずに買い物をするのと同じだよ」
物差しで測り直す
「じゃあ、経費や空室って、どこまで見込めばいいんですか。少なく見れば利回りは良く見えるし、多く見れば悪くなる。さじ加減しだいじゃないですか」
「大事な問いだ。プロは、その物件がある地域の空室率や、築年数から来る家賃の下がり方を、過去のデータで裏づける。たとえば地方の物件で満室を前提に計算するのは、ほぼ嘘だ。実際にその街で、その広さの部屋が、どれくらいの割合で空いているかを調べる。経費も、管理会社の見積もりや、同じ建物のこれまでの修繕履歴から積み上げる。楽観的な数字を自分で入れて、自分でいい利回りに見せかけるのが、いちばん多い失敗だ」
エマは、さっき自分が「満室で年百六十万」とすんなり書いたことを思い返した。あの「満室」という前提こそ、いちばん疑うべきものだったのだ。空室が二割出た瞬間に、利回りは8%から4%へ半減した。前提ひとつで、これだけ景色が変わる。
「利回りって、物件の性質だけじゃなくて、私がどんな前提を置くかでも変わるんですね」
「そうだ。だから利回りは『物件の値札』じゃなくて『自分が立てた見通しの要約』だと思ったほうがいい。同じ物件でも、慎重な人と楽観的な人では、まるで違う数字が出る。そして現実は、たいてい慎重な人の見通しのほうに寄っていく」
エマは、例のワンルームの資料を取り出した。三千万円で表面利回り4%前後。今日の物差しで測り直してみたくなった。
「このワンルーム、家賃が月十万で年百二十万。表面利回りは百二十万÷三千万で4%。でも管理費と修繕積立金だけで月に二万も引かれるって聞きました。年二十四万。それに税金や購入時の諸費用も入れたら……実質利回りは、たぶん3%を切りますね」
「よく気づいた。都心のワンルームは、表面でも4%そこそこ、実質だと3%前後まで落ちるのが珍しくない。地方アパートの表面8%と、都心ワンルームの表面4%。数字だけ見ると倍の差だが、経費と空室を通すと、その差はぐっと縮まる。**利回りは、比べる前に必ず同じ土俵——実質——に揃えろ。**表面と実質を混ぜて比べたら、それはもう比較じゃない」
エマは、一週間前の自分が「二千万円で8%!」と興奮していたことを思い出して、少し笑ってしまった。あのときの自分は、値札だけを見て「安い」と叫んでいたのだ。
「でも、実質利回りって、結局は経費や空室を『どう見込むか』で変わりますよね。低く見積もれば、いくらでも良く見せられる」
「鋭いな。まさにそこが次の話につながる。手残りをさらに削る、いちばん大きな支出——ローンの返済だ。利回りが同じでも、借り方しだいで、手元に残る現金はまったく違ってくる」
まとめ
- 利回りには表面利回り(家賃÷物件価格)と実質利回り(経費を引いた手残り÷諸費用込みの価格)の二種類がある
- 広告に大きく出るのはたいてい表面利回り。経費・空室・諸費用が入っておらず、実態より高く見える
- 経費と諸費用を入れ、空室を見込むと、利回りは大きく下がる(例では表面8%が実質4%へ)
- 表面利回りは物件をふるいにかける入り口の数字。最終判断は必ず実質利回りで行う
- 物件どうしを比べるときは、必ず実質という同じ土俵に揃える
確認クイズ
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「表面利回り」の説明として正しいものはどれ?