大家への第一歩

第6章

黒字なのにお金が減る

帳簿は黒字なのに手元の現金が細っていく——エマがデッドクロスの正体に迫る

先輩の、苦い一年

その日のヴィクトルは、いつもより少し口数が多かった。自分の失敗談を話すときは、こうなるらしい。

「昔、俺も一度やられたことがある。木造アパートを一棟持っていてな。買って数年は、絵に描いたようにうまくいった。減価償却がたっぷり効いて、帳簿は毎年赤字。給料の税金も戻ってくる。家賃も入る。順風満帆だと思っていた」

「それが、どうなったんですか」

「ある年の確定申告で、税理士に言われたんだ。『今年から黒字ですね。税金、けっこう出ますよ』と。帳簿が黒字になったんだから、いいことのはずだろう。ところが俺の財布は、その年、いちばん苦しかった。黒字なのに、手元の現金がまるで残らない。むしろ減っていく。何が起きているのか、しばらく理解できなかった」

エマは、前章の「賞味期限」を思い出した。減価償却が終わると、税金が重くなる、という話。ヴィクトルの身に起きたのは、まさにそれではないか。

二つの線が、交差する

「これには名前がついている。デッドクロスだ」とヴィクトルはナプキンに二本の線を引いた。一本は右下がり、一本はほぼ水平だ。

「右下がりの線が、減価償却費だ。年々小さくなって、いつかゼロになる。もう一本の水平に近い線が、ローンの元本返済だ。この二本が、あるとき交差する。減価償却費が、元本返済額を下回る——この交差点が、デッドクロスだ」

「その交差が起きると、何が悪いんですか」

「思い出してくれ。減価償却は、現金が出ないのに経費になる。ローンの元本返済は、現金が出るのに経費にならない。この二つが、ちょうど裏返しの関係にあるんだ。しかも、ローンの返済は、最初のうちは利息の割合が大きくて、年を追うごとに元本の割合が増えていく。つまり時間が経つほど、経費にならない元本返済の部分がじわじわ膨らんでいく。片方の線が下がり、もう片方が上がってくる。この二本が近づいて、やがて交わるのは、仕組みからいって避けようがない」

黒字なのに、現金が消える謎

ヴィクトルは、交差の前後で何が起きるかを、順に説明した。

「デッドクロスの前は、減価償却費が大きい。経費がたっぷりあるから帳簿は赤字ぎみで、税金は軽い。しかも減価償却は現金が出ないから、財布はそんなに痛まない。いい時期だ」

「デッドクロスを過ぎると?」

「減価償却費が小さくなる。経費が減るから、帳簿の利益が膨らむ。利益が増えれば、税金も増える。ここまでは前に習ったな。だが本当に怖いのはここからだ。増えた税金は、現金で払う。おまけに、経費にならないローンの元本返済は、相変わらず現金を食い続けている。**帳簿は黒字で税金を取られ、その裏で元本返済と税金の二重の現金流出が起きる。**黒字なのに、手元の現金が消えていく。これがデッドクロスの怖さだ」

避けるのではなく、備える

「じゃあ、デッドクロスは絶対に避けなきゃいけないんですね」

「そこは誤解しやすい。デッドクロスは、ローンを組んで減価償却を受ける以上、いつかは必ず来る。完全には避けられない。大事なのは、来ることを最初から知っておいて、備えることだ」

ヴィクトルは、いくつかの備えを挙げた。デッドクロスが来る時期を、買う前に計算しておくこと。それまでに手元の現金を貯めておくこと。減価償却が長く効く物件を選べば、交差点は遠くなる。前章の話につながるが、木造より、鉄筋コンクリートのほうが償却が長く、デッドクロスは遅い。逆に、派手な節税を狙って築古の木造を買うほど、交差点は足元まで迫ってくる。

「俺があのとき助かったのは、たまたま家賃で貯めた現金があったからだ」とヴィクトルは続けた。「もし手元が空っぽだったら、税金を払うために慌てて物件を売るはめになっていた。しかも、そういう『売り急ぎ』は、たいてい安く買い叩かれる。デッドクロスで現金が尽きて、投げ売りして、傷を広げる——それが最悪のパターンだ」

「じゃあ、デッドクロスに備えるって、要は『そのとき困らないだけの現金を持っておく』ってことですか」

「半分はそうだ。もう半分は、そもそも交差点が来る前に、その物件をどうするかを決めておくこと。持ち続けるのか、それとも償却が効いているうちに、いったん売って利益を確定させるのか。**デッドクロスは、物件を手放すべきかどうかを考える、一つの区切りでもある。**来るとわかっているなら、その手前で身の振り方を決めておけばいい。無策で迎え撃つのと、備えて迎えるのとでは、同じ交差点でも、まるで意味が違う」

エマは、ローンや減価償却という仕組みが、ただの計算ではなく、時間とともに姿を変えていく生き物のようだと感じた。買った瞬間の数字だけを見ていては、この変化は見えない。

「私、あのワンルームの営業トークが、いかに一面だけだったか、よくわかりました。『節税になります』の先に、こんな交差点が待っていたなんて」

「お前さんは、もう自分でそこまで見通せるようになった。最初にこの店に来たときは、『二万円で三千万円が手に入る』としか思っていなかったのにな」

エマは、少し誇らしい気持ちになった。同時に、まだ一つ、残っている問いに気づいた。デッドクロスを乗り越えても、いつかは、この物件を手放す日が来る。買うときのことばかり考えてきたけれど、売るときのことを、自分はまだ何も知らない。

まとめ

確認クイズ

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