「濃くしたい」の落とし穴
翌日の開店前。マルコはミルを指さして言った。
「今日は挽き目からだ。昨日より濃い一杯を作ってみろ。ただし豆の量は変えるな」
豆の量を変えずに濃くする。ノアは少し考えて、ミルのダイヤルを一番細かい設定に回した。細かく砕けば、それだけ味が出るはずだ。粉はほとんど小麦粉のようになった。
結果は、惨敗だった。
湯がなかなか落ちない。ドリッパーの中で湯が滞留し、いつもの倍近い時間がかかった。ようやく落ちた一杯は、濃いというより渋い。舌の奥がぎゅっと締まるような、嫌な苦さだった。
「うわ……。細かくすれば濃くなると思ったのに」
「半分正解で、半分間違いだ」
「出やすさ」という物差し
マルコは角砂糖をふたつ、グラスの水に落とした。ひとつはそのまま、もうひとつはスプーンで砕いてから。
「どっちが速く溶ける?」
「砕いたほう、ですよね」
「そう。挽き目も同じだ。細かくするほど湯に触れる面積が増えて、味が出やすくなる。ここまではお前さんの読みどおり。問題は、出やすくなるのは旨い成分だけじゃないってことだ」
試しに、とマルコは今度は一番粗い設定で豆を挽き、同じ手順で一杯落とした。粗い粉は湯をすいすい通し、抽出はいつもより早く終わった。飲んでみると、すっきりして飲みやすいが、どこか物足りない。紅茶のように軽くて、コーヒーらしい厚みがない。
「粗すぎると、今度は出きらないうちに湯が通り抜けちまう。さっきのお前さんの一杯と逆方向の失敗だ。つまり挽き目ってのは、細かすぎても粗すぎてもダメで、ちょうどいい範囲を探す変数なんだ」
ノアは二つの失敗作を並べて、交互に口に含んでみた。渋い一杯と、薄い一杯。両極端を舌で知ってしまうと、真ん中にあるはずの「ちょうどいい」の輪郭が、なんとなく見えてくる気がする。
「あともうひとつ」とマルコは、ノアが朝に挽いた粉を指でつまんだ。「同じ中挽きでも、粒が揃ってるかどうかで話が変わる。質の悪いミルは、細かい粉と大きな塊が混ざる。細かい粉からは出すぎて、塊からは出きらない。一杯の中に過抽出と未抽出が同居するんだ」
「じゃあ、どんなに設定を頑張っても、ミルがムラを作ってたら台無しってことですか」
「そういうことだ。だからうちのミルはいい値段がする」とマルコは笑った。
コーヒーの成分には出る順番がある、とマルコは続けた。酸味や華やかな香りは早く出る。甘みやコクはその後。そして苦みや渋みは、最後にゆっくり出てくる。
「出しすぎれば、最後の渋いやつまで全部出ちまう。これが過抽出。逆に早く切り上げすぎると、酸っぱくて薄い。これが未抽出だ」
ノアの頭の中で、昨日の三つの変数がひとつの絵につながりはじめた。
つまりさっきの失敗は、挽き目を細かくして「出やすく」した上に、湯が滞留して時間まで伸びた。ツマミを二つ同時に「出る方向」へ回してしまったのだ。渋くなるのも当然だった。
湯温というもうひとつのツマミ
「じゃあ湯温も同じ理屈ですか。熱いほど出やすい?」
「そのとおり。沸かしたてでガンガン出すか、少し冷まして穏やかに出すか。深煎りの豆は成分が出やすいから、湯温を少し下げてやるとバランスがいい。浅煎りは出にくいから、高めの湯でしっかり出す」
「目安ってあるんですか」
「絶対の数字はないが、うちでは沸かしてから一呼吸おいた90度前後を基準にしてる。深煎りならもう少し下、浅煎りなら沸かしたてに近くてもいい。大事なのは数字そのものより、毎回同じ温度で淹れられることだ。温度が毎回バラバラなら、味がバラバラでも原因を探しようがない」
マルコは温度計をノアに渡した。同じ豆で、湯温だけを変えて二杯。沸かしたての湯で淹れた一杯は力強いが少し尖っていて、少し冷ました湯の一杯は角が取れて甘みが前に出た。並べて飲むと、昨日までは「気のせい」で済ませていたはずの違いが、はっきりと言葉にできる。
「ほんとだ……。ツマミひとつでこんなに変わるんだ」
「だから一度に動かすツマミはひとつだけにしろ。二つ同時に回すと、どっちが効いたのかわからなくなる」
閉店間際、ノアは朝の失敗をもう一度やり直した。挽き目は「一番細かい」ではなく、マルコの基準から半段だけ細かく。湯温はいつもどおり。落ちてきた一杯は、朝の渋い一杯とは別物だった。コクが増して、それでいて渋みは顔を出さない。
「これです。朝、僕が作りたかったのは」
「だろうな。ツマミを半歩だけ回す。全開にしない。それが変数との付き合い方だ」
帰り際、ノアはレシートの裏にボールペンで走り書きをした。「細かい=出やすい。粗い=出にくい。熱い=出やすい。動かすのは半歩ずつ、一度にひとつ」。たった二行だが、朝の自分に渡してやりたいメモだった。
まとめ
- 挽き目を細かくするほど湯に触れる面積が増え、味が出やすくなる
- 成分には出る順番がある: 酸味・香り → 甘み・コク → 苦み・渋み
- 出しすぎが過抽出(渋い・苦い)、出し足りないのが未抽出(酸っぱい・薄い)
- 湯温も「出やすさ」のツマミ。高いほど出やすい
- 検証するときは、動かす変数を一度にひとつだけにする
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