閉店後の一杯
商店街のはずれにある自家焙煎カフェ「灯火」。大学二年のノアがここでアルバイトを始めて、今日でちょうど一週間になる。
志望動機は正直に言えば「家から近くて、まかないが出るから」だった。コーヒーは飲めるが、こだわりはない。講義の前に自販機の缶コーヒーを買う程度で、味の違いを気にしたことは一度もなかった。この一週間も、レジ打ちと皿洗いと掃除で一日が終わっていた。カウンターの中で店主のマルコが何をしているのか、ちゃんと見たことすらない。
マルコはイタリアの港町からこの商店街に流れ着いて、もう十五年になるらしい。日本語は商店街仕込み、豆の焼き方は故郷仕込みだと本人は言う。無口だが、豆の話になると急に饒舌になる人だった。
「お疲れさん。一杯飲んでいくか」
閉店後の静かな店内で、マルコがドリッパーに湯を注ぎはじめた。細い湯がゆっくりと円を描き、粉がふわりと膨らむ。カウンター越しに渡されたカップに口をつけて、ノアは思わず声を出した。
「……え、甘い?」
砂糖は入っていない。それなのに、はっきりと甘みを感じる。香りは焼き菓子みたいで、飲み込んだあとも心地よい余韻が残った。ノアが知っているコーヒーは、正直「苦いお湯」だった。これは別の飲み物だ。
「うちの豆、うまいだろ」
「うまいです。……あの、同じ豆、僕も淹れていいですか」
同じ豆のはずなのに
マルコは面白そうに頷いて、豆の袋とドリッパーをノアに渡した。同じ豆。同じ器具。同じペーパーフィルター。ミルの設定も、さっきマルコが使ったままだ。条件は完全に揃っている——そう思っていた。
見よう見まねで湯を注ぐ。マルコがやっていたように円を描いたつもりだったが、湯はところどころで粉の山を崩し、フィルターの縁を伝って流れていく。それでも、それらしい色の液体がサーバーに落ちた。見た目は、さっきの一杯とほとんど変わらない。
一口飲んで、ノアは首をかしげた。
薄い。そして、後味だけが妙に苦い。さっきの甘さはどこにもない。色は同じなのに、中身がまるで違う。
「おかしいな。豆は同じなのに」
もう一度淹れてみる。今度は豆の量を倍近くに増やした。理屈は単純で、薄いなら材料を増やせばいい。結果は、濃くはなったが、ただ濃いだけだった。えぐみのある苦さが舌に残る。甘さには、二杯目のほうがむしろ遠ざかった気さえする。濃さと美味しさは、どうやら別物らしい。
「マルコさん、これ、何が違うんですか。豆が同じなら、同じ味になるはずじゃ……」
味は「豆」だけでは決まらない
「いい質問だ」とマルコはカウンターに三つの小皿を並べた。ひとつには粗く挽いた粉、ひとつには細かい粉、ひとつには豆のまま。
「コーヒーの味ってのは、豆が半分、淹れ方が半分。で、淹れ方ってのは大きく三つの変数でできてる」
マルコは指を折りながら数えた。
- 挽き目 — 豆をどれくらい細かく砕くか
- 湯温 — 何度の湯を使うか
- 時間 — 湯と粉がどれくらい触れているか
「豆が半分ってのは、品種や焙煎や鮮度の話だ。ここは俺が焙煎してるから、豆側の条件はいじりようがないくらい揃ってる。つまりお前さんの二杯がおかしかった理由は、残りの半分——淹れ方のどこかにある」
「でも、器具も豆の量も、一杯目はマルコさんと同じにしたはずです」
「同じにできてないのが、この三つだ」と、マルコは並べた小皿を順に指した。
「お前さんの一杯目が薄かったのは、たぶん注ぐのが速すぎた。湯と粉が触れてる時間が短けりゃ、味は出きらない。二杯目がえぐかったのは、豆を増やした分だけ湯が通りにくくなって、注ぎにも時間がかかって、今度は出すぎた。どっちも豆のせいじゃない。時間っていう変数が、二回とも別の方向に暴れてたんだ」
ノアは自分の二杯を思い返した。たしかに、注ぎ方も速さも、マルコとはまるで違った。マルコの手元は、いま思えば異様なほどゆっくりで、一定だった。
明日から、ひとつずつ
「じゃあ、この三つをマルコと同じにすれば、同じ味になるんですか」
「理屈の上ではな。だから面白いんだ。センスの話に見えて、実は変数の話なんだよ、コーヒーは。センスなら真似できないが、変数なら真似できる」
真似できる、という言い方がノアには意外だった。カウンターの中の仕事は、もっと職人的な、長年の勘のようなもので出来ていると思っていた。勘に見えたものの正体が「揃えられた変数」なのだとしたら、一週間前の自分と今のマルコの間にあるのは、才能の差ではなく、知っている変数の数の差ということになる。
「一度に全部覚えなくていい。明日は挽き目と湯温をやろう。今日はこれだけ覚えて帰れ——味の違いには、必ず理由がある」
帰り道、ノアは自分の舌に残った二杯の記憶を反芻していた。薄くて物足りない一杯と、濃くてえぐい一杯。どちらにも理由があったのだ。そう思うと、失敗した二杯が急に愛おしくなった。缶コーヒーしか知らなかった一週間前には、想像もしなかった感覚だった。
まとめ
- コーヒーの味は「豆」と「淹れ方」の両方で決まる
- 淹れ方の変数は大きく三つ: 挽き目・湯温・時間
- 薄い(味が出きらない)のも、えぐい(出すぎる)のも、変数の結果であって偶然ではない
- 味の違いには必ず理由がある。理由がわかれば再現できる
確認クイズ
1 / 3
ノアの一杯目が「薄かった」最も可能性の高い理由は?